ーあなたの救いのため積極的なイエス様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、『だれを捜すのか』と彼らに言われた。彼らは、『ナザレ人イエスを』と答えた。イエスは彼らに『それはわたしです』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、『それはわたしです』と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。そこで、イエスがもう一度、『だれを捜すのか』と問われると、彼らは『ナザレ人イエスを』と言った。イエスは答えられた。『それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。』それは、『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした』とイエスが言われたことばが実現するためであった。」

ヨハネによる福音書181-9

 

イエス様はあなたに対して消極的ではなく積極的に、能動的に愛を注がれる。あなたが何かをしたからではなくまずイエス様ご自身があなたを愛された。あなたの救いのため、あなたがいのちを得るために。このイエス様はあなたの前に立ち、「あなたは誰を捜すのか」と尋ねられる。あなたは何と答えるだろう。

 

さて、↑はイエス様が十字架に架かられる直前の場面です。イエス様はこの日最後の告別説教、そして弟子たち、私たちや教会のために祈った後、ついにその足を十字架へと向けていきます。この33年の生涯を思いめぐらし、またこの公生涯の間に出会った一人一人、また弟子たち一人一人の顔を思い浮かべ、そして彼らの罪、痛み、一切を背負い、その足を進めていきます。そう、イエス様は私たち一人一人の事を忘れず、覚えておられる、感謝ですね。この事、忘れないでくださいね?イエス様はあなたという一人の人を忘れはしない、という事を。

 

そしてイエス様は弟子たちと一緒にとある園、ゲツセマネの園に入っていきます。そこはいつもイエス様が祈られていた場所です。不思議なのは、イエス様は、ユダがこの場所に来る事も知っていたはず、それなのに自ら危険なタイミングで、しかも危険な場所に足を踏み入れていくのです。今思い浮かべた弟子たち、私たちのいのちを贖うために。

 

しかし↑を見て、イエス様は自ら捕まるために積極的に動いているように感じませんか?実はそうなんです。イエス様は積極的な方なのです。どうしてもユダが口づけのせいでイエス様は逮捕「された」ように見えます。極端な話、ここにきて何も力を失い、弱弱しくただ逮捕されるしかない状況にあったように。しかしそうではありません。わざわざ捕まるとわかっている場所に自ら、イエス様は足を運んだのです。そう、イエス様は私たちのいのちのために積極的に行動されるんです。

 

イエス様はこのゲツセマネの園で、↑では記されていませんが(他の福音書によると)、血の汗を流し、もだえ苦しみながら、できますならばこの苦しみの杯を退けてほしい、しかし、御心のままに、と苦しみながら祈りました。これから起こる事がどれだけ苦しいことか。十字架の苦痛、これまで出会ってきた一人一人、いや神様の造られた大切な子たち、自分の愛を注ぎ続けてきた群衆に裏切られる事、なにより、この十字架で父なる神様から引き離され、神様の子でありながらも死ななければならない事、それにもだえ苦しんだ。

 

しかし、イエス様は弟子たち、いや私たちのためにも、心を寄せ、思い、私たちの救いを願い、十字架に進む事を辞めなかった。なおその歩みを止めなかったのです。

 

こうしてイエス様は、ゲツセマネの園で祈り終えると、ユダが一隊の兵士、祭司長、パリサイ人から送られた役人たちを連れてきました。ちなみに一隊の兵士というのは、おおよそ3-40人くらい。ローマ兵は、暴動など、よっぽどのことのない限りは出てきません。役人たちは恐らく、イエス様についている人がいるのではと考え、うまくあおって兵士たちを連れてきたのでしょう。

 

そしてユダが口づけし、合図をし、兵士たちがイエス様、弟子たちを取り囲みました。しかしイエス様は、↑にあるように、自ら進み出て、「誰を捜すのか」と、彼らに問います。イエス様は黙っていれば、逃げることもできたでしょう。しかし、進んで前に出たのです。ユダの顔を見て、また群衆たち、弟子たちの顔を見て、この者たちのいのちのため、救いのため、進み出たのです。そう、イエス様は進んで私たちの前に進み出るのです。

 

そこで彼らは「ナザレのイエスを」と答えました。ナザレ、ということばは、侮蔑した表現、この田舎者、とかそういう偏見のことばです。そんな彼らに対してイエス様は、「わたしはある、というものである」と答えたのです(↑は微妙な訳ですが正確には)。それはわたしだよ、というレベルでは、屈強の兵士たちが後ずさりしたり、地に倒れたりはしません。「わたしはあるというものである」というその言葉の前に、いや、その御力と権威の前に立ってなどいられなくなったのです。

 

「わたしはあるというものである」。その名はかつて、イスラエルの民が出エジプトをする前に、神様がどのようなお方なのか自己紹介された時に語られたあの名前です。しかもそれは、とこしえにわたってあり続ける、と約束されていました。特に律法学者たちは、このイエス様の返答が何を意味するのか、一番よくわかっていました。イエス様こそ、あってあり続ける方、あらゆる存在の根源たるもの、である、と言われ、その場にいた人たちは卒倒せざるを得なかったのでした。みなさん、もしイエス様が味方なら、誰も私たちに敵対できない、立てないのです。

 

そうしますと、ナザレのイエスを捜す彼らに、「わたしはあるというものである」と答えたという事は、あってあり続ける、あらゆるものの根源であるイエス様が、人々からさげすまれたナザレの人となって、そのご愛をも示す方である事が分かります。このイエス様の返事はそういう意味では相当に深いものがあります。こんな底辺とされるもののためにさえ、ご愛を惜しみなく示されたのですから。一部の上流階級の人や、何か権威のある人、兵士、祭司長、神様を愛するよりも自分が褒め称えられることを望んでいる役人たちではない、イエス様を求めるもののために、わたしはこのいのちを与えよう、身代わりに十字架に架り罰せられ、死のう、と。

 

人はこのように、イエス様の御前に誰も立ちおおせることはできません。国を支配しているローマ兵たちも、国の役人も、指導者たちでさえ、だれ一人イエス様に勝ることはできません。パウロも迫害下、このように記します。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方・イエス様によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」。

 

私たちは御子イエス様の十字架の前によって神様と和解させられたなら、十字架の前に悔い改め、神様の御前に立ち返るなら、私たちはこのいのちの中に招かれる。罪赦されて終わりではない、イエス様の復活と共に、私たちは死から引き上げられ、いのちを得る、神様の子とされ、そのいのちの関係に招かれるのです。イエス様の羊の群れ、神様の家族に入れられた、その者は、「神様の子とされる特権が与えられた」ゆえに、イエス様の御名を呼び求めることが赦され、呼び求める者には、力が現されるのです。

 

役人や兵士たちは、「誰を捜すのか」というイエス様の問いに対して、イエス様があるというものである、という事を聞いてもなお、イエス様の御名を呼び求めるのではなく、「人間・ナザレ人イエス」と答えました。彼らは暗闇の中、たいまつをもって探しに来ましたが、人間イエスを捕まえようとするだけで、救い主を求めていない彼らは、イエス様を前に地に倒れるしかなかったのでした。しかし、イエス様はご自分から能動的につかまり、イエス様を求める人たちが神様、本当の光なるお方の家族に加わるように、その足を十字架に向けられるのです。

 

さて、今日も、いつもイエス様は私たちの前に、あなたの前に立ち、「あなたは誰を捜しているのか?」と問うています。あなたは何と答えますか?「あなたがたがわたしの名によって求めることは何でもそれをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなた方がわたしの名によってわたしに求めるならわたしはそれをしましょう」とおっしゃられたイエス様があなたの前にいつも立っています。この方にいつも呼び求めようではありませんか。求め続ければイエス様が与え、探し続ければイエス様を見出し、叩き続ければイエス様が開かれるのですから。あなたがいのち・喜びを見出すために。あなたを捜しに来られたイエス様に私たちは今日、応答しこのいのちを得、この道をイエス様と共に歩もう。