「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
Ⅰヨハネの手紙5章1-5節
私たちは御子イエス様にあって圧倒的な勝利者とされる。世に勝利させていただける。それは周りの人たちを屈服させるということではない。罪の束縛を打ち破り、神の恵みを受けるという最高の栄誉を受ける。サタンは打ち破られ、私たちは神様の恵みによって生きる。この最高の恵みに御子イエス様によって私たちは神様に招かれている。
さて、↑は神の御子イエス様が人として生まれ、生きられた間の弟子たちの一人、ヨハネさんという人が晩年に、教会宛てに書いたもの。でも、別に神様を信じていない人たちを無視しているわけではないんですけど、↑にある勝利者に全ての人は招かれているわけで。
時にこのヨハネという人は本当に苦労だらけ。他の12弟子たちはみな、この時殉教、初代教会を支えたパウロも殉教。自分は何度も何度も殺されそうになる。ある時は油の煮えたぎる窯の中に入れられたことだってあったそうな(神様の守りの中生きる)。そして島に幽閉。国はローマの支配と迫害…こんな状況を見て、ヨハネはどうして↑のようなことをいえたのだろう。迫害され、苦しんでいるのに勝利者となる?むしろ重荷になっているではないか、と関上げても仕方ない状況だった。
しかし、ヨハネはそれでも、晩年になって告白する。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と。
それはヨハネのやせ我慢?違う。私たちはクリスチャンとして、世界を屈服させる事、それが世に対する勝利ではないのです。我々に従え、と屈服させるような勝利者ではない。イエス様の命令、話されたことの中にそんなことは一言も出で来ない。イエス様も、私は神の御子だぞ、我にひれ伏せ、などとも一言も言わなかった。むしろ、聖書にはこうあります。「神様は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである」と。
そう、↑の世と、神様の愛する世とはちょっと意味合いが違う。↑のほうは、罪の支配に対する勝利、サタンへの勝利。神様の愛する世というのは、私たちの事。だってご自身の造られた子供たちを愛さない親なんていない。
私たちは神様を捨てて離れてしまった。自由を求めて。自分が神に慣れる、好きに生きられると思って。サタンの誘いに乗ってしまった。しかし神様のいのちによって生きるはずのものが、神様から離れたところに待っていたのは罪の支配、神様の愛とは真逆の偽りの世界。サタンの支配にとらわれてしまった。何より、罪の刑罰・裁きを待つものとなってしまった。しかし、神様は私たちをこの悲しみから解き放ちたかった。神様は、私たちという意味の世を、ざまあみろ、わたしに逆らった罰だ、とかそんな愛のない目では見なかった。
むしろ、私たちを支配する世・罪の束縛、サタンの支配から解き放つため、勝利するため、私たちの罪を身代りに背負われ十字架に御子イエス様を架けられた。私たちの身代わりに罰し、死なせ、私たちが支払うべき罪の代価を御子イエス様に支払わせたのです。そして死なれて終わりではなく、よみがえられたことによって、この罪の支配、束縛を打ち砕かれた。御子イエス様を「自分の罪」のために身代わりに十字架に架かられ死なれ、またなおよみがえられた救い主として信じ受け入れる時、私たちはこの罪の束縛から自由にされる。サタンの手から取り戻され、神様の子とされる。サタンの束縛、支配はあなたをもうどうする事も出来ないのです。
神の御子イエス様のいのちによって、私たちはいのちを得る。サタンの、罪の支配ではない、神様の恵みがあなたを覆う。これこそが勝利者の姿。この御子イエス様の恵みが覆う時、世に勝つのです。キリストの恵みに、御子イエス様のいのちによって和解された神様との関係に勝るものはない。ここに勝利があるのです。そしてこの恵みによって私たちは滅びではなく、永遠のいのちという最高の栄誉を受ける。この世があなたに何をしようとも、私たちは最後に勝利を得るのです。
実は↑の手紙には続きがあります。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」。私たちはこの永遠のいのちにあって、神様があなたの内に祈りを聴かれ、なお、あなたの内に神様の御心を現してくださるのです。何という幸いでしょう。
神様を信じるということは何か精神的なものではない。神様の愛が、命があなたの内に注がれ、御心があなたの内に現される。あなたを覆う闇も重荷も、この御子イエス様に勝ることはできない。御子イエス様のいのちによって和解されたその関係において、その光が、御心があなたを覆う時、その闇は打ち勝つ事はできず、神様のまことの光があなたに差し込む。
あなたはこの勝利を、救いをいただいているだろうか?これは、「御子を信じるものが一人として滅びることなく」とあるように誰しもにも注がれている神様の愛です。ぜひ受け取ってください。そして本当の意味の勝利をぜひ掴み取ろうではありませんか。この御子イエス様の恵みの内に、私たちは生き様、いや歩ませていただこうではありませんか。