ーたとえ火の中牢獄の中ー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして32) | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして32

「ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、『私と寝ておくれ』と言った。しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。『ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。』…こうして彼女は主人に、このように告げて言った。『あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。』主人は妻が、『あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」

創世記391-23

 

今から半年前、9月6日未明に北海道で大震災(胆振東部を中心に)がありました。私も震度の差はあれど体験。情報網、ライフラインの寸断。渡しの被災日数は少なかったのですが、このすべての寸断は本当に疲労困憊でした。でも、この時神様に示されたことは今でも忘れない、どんなに他のライフラインが途切れても、神様のライフラインは寸断されない、という事を。

 

とはいいながらも、実に半年の時間が経過しても、未だに仮設住宅で生活をする人もいれば、まだ非難指定区域に住む人もいます。また、雪解けで地盤が弱体化し不安の中にいる方もまだ多くいる。残念ながらそういう情報がTVに流れる日もこういう節目の人かじゃなければ最近は流れない。でも、人の目には忘れられても、神様は忘れてはいない。きれいごとに聞こえるかもしれないけど、神様は、綺麗ごとではなく、愛で動かれる。

 

↑の出来事に登場するヨセフという人もある日突然のように理不尽に愛する家族から引き離された。彼は一族の長、イスラエル部族の初期のころの家。ある意味裕福で恵まれた中で過ごしていた。しかし、父親から偏愛されて育ってきたためか、少々尊大なところもあり、また父に愛され過ぎている彼に嫉妬する兄弟たちによって、奴隷としてエジプトに売られていってしまったのでした。

 

まあ実は、本当は兄たちに殺されるところを、一人の兄弟の執り成しによって、殺すのは良くない、売る方が良い、ということで命は守られたのですが。そして、先に売られたことによって、後に世界的大飢饉から世界を救う役割を担うことになるわけですが。

 

話しは戻して、彼は本当にどん底にいきました。自分を支えていた家族もいない、言葉も文化も違う、一体この先どうして行ったらいいのか?家族の元に帰れるのか全く分からない、絶望下に置かれました。しかし、驚くべきことに、本物の家族から引き離された中にあって、「主(神様)がヨセフとともにおられた」というのです。何もない、誰もいない、そういう中にあって、神様が傍に来られていた。愛する家族に捨てられたと思っていた中でも、神様が彼を捨てていなかったのでした。傲慢だった彼を。

 

ヨセフはこの背後にいる神様を喜び、ここで精いっぱい生きることを決めた。というよりも神様に委ねる事を決めるのでした。「神様が彼を幸福にしてくれた」というように、神様が必ず私をこの地にあっても幸せにしてくれる、そう信じて。そう、神様がそこにいて下さるからこそ、私たちは幸せになれる、神様が幸せにしてくださるのです。

 

彼はそれゆえに、神様に信頼して、ポティファルの家に仕え続けた。そして彼は自分の妻の事以外は全てヨセフに任せるほどにまで信頼をしてもらえるようになった。↑の後半で、奥さんの罠によって牢獄に入れられる事があっても、普通なら主人の奥さんに手を出した、と濡れ衣であっても疑われれば当時の事を考えれば殺されてもおかしくない。それにもかかわらず彼はいのちを守られた。

 

彼の苦難はしばらくの間苦難が続きます。しかし、神様が彼と共にいるから彼は守られた。神様ご自身に信頼するからこそ、彼のその決断の上に神様はご自身の御心、愛によって彼の生涯を建て上げて行かれたのです。彼自身が諦め、不遜な態度で仕事をしていればどうだったか?どうせ神様なんか助けてくれない、と諦めていたらどうか?神様のご計画はどうだったか?書いていないのでわかりませんが、彼の先はかわっていたでしょう。しかし、この絶望の闇は彼を通して働く神様によって祝福され、光がともり、この家は豊かに祝福されていった。

 

ヨセフは奥さんに誘惑されたとき、彼にこう答えました。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」。神様が置かれた。神様が愛されて共にいてくださり、今御心を成し遂げようとしているのに、その神様の計画を、愛をどうして裏切れようか、私は神様に信頼する、そう決断したのです。

 

神様は、このところにあってもヨセフへのライフラインは切っていなかった。神様は、私たちが拠り所としていたところから話され、誰もいない、助けはどこから来るのか、と思う中にあってもそのライフラインはとぎらせることはない。その愛は注がれている、でもそれに私たちは気づかないだけなのです。というよりも信じられない。

 

だから神様は私たちを探しに来られた。父なる神様から引き離された私たちを探しに来られた。あなたが奴隷・罪の奴隷にとらわれている彼を「幸せ」にするため、幸運な人、とするために、この罪の代価を身代りに背負われ、受持化でそのいのちをもって支払い、解放してくださった。罪人の行きつく先、死の牢獄にまで、十字架で死なれる事で下って行かれた。神様の愛の届かないところはない。死刑囚、罪の奴隷であるあなたを救い出すためなら御子イエス様を身代りにすることさえいとわず、愛を注がれる。そして復活と共に私たちを引き上げ、ただ救って終わらず、この中に共に住まわれ共に生きて下さり、神様の御心、愛をもってあなたを建て上げて下さる。

 

たとえ火の中牢獄の中、被災地にあろうと、この世にあろうと主が共にいてくださり、あなたの内に御心をなしてくださる。絶望の闇に光を灯し、そこから命の川を溢れさせ変えて行かれる。かのポティファルの家がヨセフを通して働かれる神様の御業によって祝福されたように。あなたのいる状況、闇は神様の光によって、イエス様にあって和解されたこの新しい関係にあって変えられていく。神様が、あなたと共にいてくださるから。

 

神様はきれいごとではなく、愛で動かれる。あなたへの愛で。その愛はあなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず身代りに与えるほどの愛。その愛が今あなたの側にある。あなたはこれを信じ受け入れるだろうか?ヨセフのようにこれに信頼し歩むだろうか?ヨセフのように、この愛にどうして裏切られるだろうか?と告白し、今日私たちは歩もう。神様が建て上げて下さるいのちの内を。御子イエス様にあって。「神様が」あなたを愛している。あなたは信じますか?