ー元気です!ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣たちも喜んだ。パロはヨセフに言った。『あなたの兄弟たちに言いなさい。【こうしなさい。あなたがたの家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる。】あなたは命じなさい。【こうしなさい。子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから】と。』イスラエルの子らは、そのようにした。ヨセフはパロの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧をも与えた。彼らすべてにめいめい晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚とを与えた。父には次のような物を贈った。エジプトの最良の物を積んだ十頭のろば、それと穀物とパンと父の道中の食糧とを積んだ十頭の雌ろばであった。こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。『途中で言い争わないでください。』彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地に入り、彼らの父ヤコブのもとへ行った。彼らは父に告げて言った。『ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。』しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。イスラエルは言った。『それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。』」

創世記45章16-28節

 

私たちを結局元気にすることができるのは、健康飲料でも、友人でもない。ああもちろん友人の励ましも力にはなる。でもその友を神様が送ってくれて、その友を通して神様が働かれるからこそ元気になるわけです。神様は、私たちを本当の意味で元気にしてくださる。神様の御力を、愛を見くびってはいけない。もっともっと神様に信頼し歩もう。

 

さて、↑は紀元前、イスラエル民族の初期のころの話。当時の族長的なヤコブ(イスラエル)の息子は、父からの偏愛に対し、兄たちが↑に登場する弟ヨセフに嫉妬し(といっても兄たちにも同じように愛は注がれていたが、自分たちを十分に愛していない、といい大人である兄たちが未成年の弟に嫉妬するという情けない部分もある)、彼をエジプトに奴隷として売り払ってしまうのでした。で、父には獣に食い殺されたと伝えていたわけでした。

 

そんなものですから父は本当に憔悴しきっていました。しかし、エジプトの地でヨセフは生きていた。彼はあり得ない理不尽の中で奴隷におとされるも、それでも神様に信頼し、ここに置かれたのが神様なら、私はこの神様に信頼しよう、神様は不思議な夢を見せて、私を導こうとしているのだから、と仕え続けました。まあまた濡れ衣で牢獄に投獄されたり、せっかくエジプトの高官のいのちを救ったのに忘れられても腐ること無く神様に信頼し続けたのでした。

 

そしてついに、時が来て、これから起こる7年の大飢饉からイスラエル民族、いやエジプト、そして世界の人たちを救い出すべく神様は彼を総理大臣、ファラオの次に偉い立場へと引き上げられ、ファラオも、立場のほかにおいては全権を彼に与えていたほどでした。ファラオは神様の素晴らしさを、エジプトをも即応という神様の愛の前にひれ伏したのでした。

 

そして神様が大飢饉の前に備えの7年間の大豊作を備えて下さるという神様の導きを信じ、ヨセフはその間国の食糧をそろえ、蔵を備え、いよいよ7年の大飢饉を迎えました。

 

神様はその御手をファラオにも、そしてなんと嫉妬して神様が遣わしたヨセフを奴隷として売り払うというあり得ない罪を犯した兄たちにもその愛の手は伸ばされていたのでした。そして紆余曲折を経て(詳しい話はここ数日の投稿をどうぞ)、神様のその愛を受け、悔い改めた兄たちはついにヨセフと和解を果たすのでした。そしてヨセフはファラオに話し、彼の父、また兄たちの子どもたちや家族をエジプトに連れてこようと、兄たちにお願いします。それが↑。

 

ところが、まだヨセフが生きている事を知らない(兄たちでさえ、エジプトで20年近くたって再会するまで彼が生きているとは思っていなかった)父はなお憔悴しきっていました。とても兄たちのことばが信じられませんでした。

 

しかし、一部の概要ではなく、神様が彼らの内に成したすべての事を伝えた時、彼は元気を取り戻したのでした。何が彼を力づけたのか、ヨセフを失い神様の愛が分からなくなりどうしていいのかわからずにいた彼に神様が今も働かれ、その恵みの、愛の中に、その養いの中に招いてくださっている、しかも失ったと思われていたヨセフも生きている、これ以上感謝な事はなかったのです。

 

ちなみに、↑にある「元気づいた」ということば、元々のことばでは非常に面白い表現をしていて、「ヤコブの霊は生きた・回復した」という表現になっています。そう、神様との交流の部分が回復した、元気になった、この神様の恵みが、彼を回復させた、元気にさせたのです。神様が働かれたのです。兄弟たちのことばがよかったのではない、まさに神様の福音・これこそが彼の内を回復させていった、いのちをあふれさせたのです。

 

私たちは神様によって生きる意欲が湧いてくる、というか生きるのです。そういえば三浦綾子さんは「元気とは、生きる事への意欲である」とおっしゃっていましたが、まさに神様がその意欲、力を与えて下さるのです。それは何歳であろうと変わらない。聖書は言う、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」と。

 

神様は、ヨセフが彼ら家族に素晴らしいものを用意し迎えに来ようと兄弟たちを遣わしたように、御子イエス様を人として私たちの間に住まわせるべく生まれさせてくださった。あなたを迎えに、あなたを世とは比べ物にならない神様の養いが溢れる聖なる場所に招くために。私たちが神様との断絶という最大の飢饉の中にあって、罪に、世に、様々な重荷に憔悴しきっている、魂が衰え果ててしまった私たちを回復させるために。

 

神様の愛を疑い、拒否し、こともあろうに裏切る私たちを見捨てず、その罪を身代りに、ヨセフのように理不尽にも、追われ十字架上で罰せられたのです。なんたる理不尽。しかし、あなたをこの最悪の飢饉の状態から回復させ、神様の霊、いのちであなたを生き返らせるためになら、と決断され実行されたのがあの十字架の愛なのです。主イエス様ご自身があなたを連れ戻し、生かすために、回復させるために。神様とのいのちの交流・元気を与えるために。この世のことばではなく、福音には、この十字架の内にはその力がある、いやそのうちに働かれている神様の内にこそ、いのちが、力がある。

 

今日、私たちは神様にあって生きる意欲を取り戻そう。いや、この神様の愛に、ご計画に、何より神様のいのちがけの養いに大いに期待し歩もうではありませんか。

 

私たちを結局元気にすることができるのは、健康飲料でも、友人でもない。ああもちろん友人の励ましも力にはなる。でもその友を神様が送ってくれて、その友を通して神様が働かれるからこそ元気になるわけです。神様は、私たちを本当の意味で元気にしてくださる。神様の御力を、愛を見くびってはいけない。もっともっと神様に信頼し歩もう。