「こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに『なぜ自分の仲間を打つのか』と言った。するとその男は、『だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか』と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。」
出エジプト記2章11-15節
私たちの行くべき道は、結局のところ2つに一つ。神様が導くそのいのちの道か、それとも神様から離れ行く、世の道か。神様がすべ治める道か、世のルールが支配する道か。私たちはいつであろうと神様が導かれるその道を歩みたい。その道を導かれるのは他でもない、神様なのだから。
さて、↑は昨日の続きにもなりますが、十戒で有名なモーセさんの青年期の話です。当時、イスラエル人はエジプトに住んでいました。というのもその数百年前、世界規模の大飢饉から救うべく、一人のイスラエル人の青年がエジプトに遣わされ、彼が総理大臣となり、これら飢饉から神様の導きによって救い出した、その流れで家族はイスラエルに移住し(と言っても当時70人程度)そこに住んでいました。
しかし、そんな彼らの活躍を知らないエジプトの王朝が興り、200万人以上に増えたイスラエル人がいざという時に敵国に着くのではないかと恐れ、イスラエル人を奴隷として支配し始めました。また、男の子が産まれたら殺せ、と、それでも助産婦が到着する前に生まれるので、と助産婦がファラオに言うと、ならその赤子をナイルに捨てるように、と命じられていました。もうそんな絶体絶命の中、モーセという、後にイスラエル人をエジプトから導き出すリーダーが産まれるのでした。まあ別に彼やその家族はそんなことはつゆとも知らなかったでしょうが。
最初は両親も彼を隠していたのですが、3ヶ月もすると隠しきれず、ついに、ナイルに「置く」、神様の御前にこの問題、すべてを置く・委ねる決断をしました。神様が守ってくださることを信じて、水に浸からず浮かぶような仕掛けを加護にし、それにモーセを入れて。モーセを造られた神様はもちろん造られた者として愛を注がれていたので、彼を守り、神様を恐れる王女に拾われ、育てられることになりました。しかも、幼少期は母親を乳母としてそのもとで育てる事も了承しました。
そんな彼が大人となった頃(40歳のころ)、彼はふと自分がどのように生きて行くのかを考えました。彼は王宮で、王女の子として育てられているので、このままエジプトの支配者として生きることもできる。富も名声も我が物として生きる道もあった。しかし、彼はそれを望まなかったのです。
この時のことを、聖書の中の記事の中でこのように触れられています。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」と。
モーセは、両親から自分が神様によって守り導かれたことを知ったのでしょう、そして何より自分が神様の御手の中に導かれている事、それが何よりの宝だと知ったのです。自分がイスラエル人の側についたら王たちから何をされるか分かったものではない。子どもたちを容赦なく虐殺するような王なのだから、何をされるか分かったものではない、それでも、神様が私を導き治めて下さるのだから、それ以上に優れた話は、恵みはない、と確信するのでした。
ここにすべてがある。神様神様と言って、求めて何になる?もっと現実を見よう、そっちの方が楽じゃないか、とは思わなかった。自由を求め神様から離れても、結局そこにあるのは世のルール、愛もへったくれもない、罪とサタンに支配された中に身を置くだけ、そこに何の意味があるだろう?見せかけの富や名誉がどうして私を生かすだろう?そう考えた彼は、神様の民として、神様のうちに生きることを、そこに身を置く決断をしたのです。
だから、同胞が苦しめられているのが我慢できず、救い出しに行った(結果、そのエジプト人を殺すことになったのは議論が分かれるところ)。しかし悲しいかな、奴隷とされていたイスラエル人たちのところに翌日また、モーセが訪ねて行くと、彼らは喧嘩をしており、モーセが仲裁に入ると、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」とこの機会をはねのけたのでした。せっかくの救いのチャンスが来ている、神様が今、エジプトから彼らを救い出そうとしているその時に、そんな神様など信じて何の腹の足しになる?と拒否したのです。まあ、この辺の話は明日別な箇所から書きますが。今救いの時、しかし彼らは神様のご計画が成ろうとしている、救いの機会を、そんなものは信じても何も意味をなさない、と拒否したのでした。
まあモーセの訓練期間ともなりますが、それでも結局彼らは40年なお、このエジプトの奴隷として苦しむ事となるのでした。一方のモーセは、なんだやっぱり神様なんか信じても何にもならない、王宮を捨ててイスラエルの民・神の民として生きる決断をしても意味がなかったじゃないか、とは考えずに、王宮に戻るのではなく、神の民として、神様の導かれるこのいのちの道を歩む決断をするのでした。
さっきの続きにこうあります。一見王にびびって逃げたように上を見ると見えますが、「信仰によって、彼・モーセは、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです」と、それでも私は神様の道を進む、と決断したことが証言されています。
昨日も書きましたが、モーセを造られたのは神様、私たちを造られたのも神様です。神様はモーセが、私たちが産まれるよりもはるか前から私たちの事を愛し、考え、最高の計画を用意している、私たちを造られたものとして神様は私たちを無責任に放置するのではなく、守り導いてくださっているのです。私たちは自分の人生は自分のものだ、と考え好き勝手に生きようとする。どう生きようと自分の勝手だ、と。まあそうと言えばそう。でも神様以上にあなたを守り、愛し導かれる方などいない。だってあなたを愛し造られた方のなのだから。そんな神様から離れてどうして私たちは本当の意味で生きて行けるだろう?その行く道は、神様に続くのではない、死の道、罪の支配する道、最後は滅びに向かっていく。
しかし、神様はモーセを、イスラエルの民を憐れまれこのエジプトから救い出そうとされたように、私たちがそのような罪の中に、罪の、サタンの支配下にあり、偽りの富の中死にゆく事など我慢できない。だから、彼らを出エジプト、救い出そうとされたように、私たちを神様は救い出そうとされた。出・罪の奴隷のため、モーセではなく私たちには神の御子たるイエスキリスト様を送られたのです。
エジプトで支配を受け苦しみ苦役を支配来続けている彼らを解放するため、その苦役を身代りに背負うべく、私たちの罪の代価、死、裁きをその身に背負われ十字架に架かられ死なれた。そしてよみがえりと共に、私たちをその罪の奴隷、滅びの穴から救い出されるのです。
しかし、イスラエルの民にその機会、選択の時があったように、またモーセが神の民として生きるかこの世の王子として、罪の、偽りの富の中に生きるかを決断を迫られたように、私たちも最後はその決断を求められる。私たちがモーセではなく、イエス様の前、十字架の前に立たされた時、悔い改め、罪の道から方向転換し、神様の子として生きるか、神など信じたって何の得にもならない、と神様から離れ生きるか?しかし、私たちを導かれるのは、あなたのために命さえ惜しまず身代りになって与えた御子イエスキリスト様です。そのいのちを持って買い戻された私たちなんです。何を恐れる必要があるでしょう?
私たちはどっちつかずで歩むのを辞めよう。なぜならあなたのいのちをその御手で支えてくださる神様が共におられるのだから。どこにいようが、苦難の中であろうが、そこまで降って来られたイエス様を思おう。あなたのために身代わりに死の底にまで降られたんですよ?そのイエス様があなたとどんな時であっても共に進まれるのです。今がその時ではない、とミデヤンに住みついたモーセの旅路にも神様が共におられたように。私たちはその行くところどこにおいても神様を信頼しよう。それでも、イエス様道を進もう。その道は御子イエス様のいのちによって導かれる、そのことを信じ信頼し歩もう。