「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。…見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。」
イザヤ書65章1-20節
神様は、あなたのある一時だけに目を向けられる方、関心を持たれる方ではない。あなたの生まれる前から、あなたの死ぬとき、いやその後まであなたに関心を持ち、生きることを願っておられる。あなたはこの愛を知っているだろうか?
さて、↑のことばは預言者イザヤを通して神様が語られたことばです。イザヤの時代は、民は神様を捨て、神様よりも現実が大事だよね、と諸外国との関係の中、富や安全、名誉、地位を確立しようとしていた。神様は自分たちの現実なんか見ない、もっと現実的に生きよう、と神様を捨てていた。しかし、彼らが頼りにしていたものに民は裏切られ、もはやアッシリヤやバビロンの脅威にさらされていた時代でした。
その中で神様は、イザヤを通して多くの預言をされました。イスラエルの民が確実にアッシリヤやバビロンに捕囚されていくことを前半で語り、しかしながら、と言わんばかりに、あなたがたを捕囚先においても見捨てず護り導き、良い物に変える事、どうにもならない現実の中においてもその御手はひっこめないで守り導くと約束され、70年先には必ず捕囚から解放する、と、今罪の中にいる彼らに向かって約束するのでした。だから、私のうちに生きるように、私は今というこの時、あなたに関心を向けている。あなたが捕囚され苦しむ事が忍びないんだ、我に帰れ、とひたすらに訴え続けるのでした。
そんな預言の最後の方が↑になるわけです。神様はさらに未来について語ります。それは、世の終わりの話です。神様がどれだけのものを彼らに、あなたに用意しておられるのか、その計画について語ります。それは、この世界とは違う、新しい天と新しい地を創造する、私たちの住まいを用意してくださる、そうおっしゃるのでした。そこには楽しみがあり、泣き叫ぶものさえない、恵みの地を用意する、と。これ、本当にすごい話。
でも、これは紀元前の話ですし、まだずっと先の話。しかも、まだこれは実現していない。そんなことをなぜ神様はイザヤを通して語られたのか、見せられたのか?それは、だからこそ、わたしに帰れ、と訴えているのです。
というのも、実はこの新天新地の創造、その時が来る前に大いなる裁きの事についても神様は語られます。神様などいない、と神様を捨て、神様から離れて生きたものには大いなる裁きが待っている、と。その罪の清算の時が待っている事を告げます。
でも神様はあなたを愛するがゆえにそんな裁きなど下したくはない。神様は私たちにこの最高の恵みを受けてほしいのです。死もない、病も悲しみも何もかもなくなる、新天新地。そこに神様の恵みの中永遠に住まわせたい、これが神様の願いなのです。
↑の最初のところをもう一度読みますと、「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。…わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた」とあります。神様は私たちを愛するがゆえに死の先にも最高の恵みを用意している、だから私たちがこの恵みを受けられるように、と一日中、神様を知らない人たちにさえその手を差し伸ばし続けているのです。
なぜ反逆の民のためにさえそんなことが?それが神様の愛なのです。私たちは、当時の人たちもそうですが、神様などいらない、現実を考えようよ、神様なしでもおれ一人で生きて行けるし私の人生私の好きなように生きて何が悪い?と言う。もしくは私の求める物を与えない神など神ではない、と神様を捨てる。どれだけの愛を注いでも、私たちの内に神様の御恵み、御業、時に奇跡がなされても、のど元過ぎれば熱さ忘れる、がごとく私たちはすぐ神様を捨てる。そんな私たちにどうして神様は愛を注ぐ必要があるだろう?でもそれでも、あなたを造られた神様が、神様の恵みから離れ、命を失い行く事を我慢できないのです。
私たち、時々勘違いするんですけど、クリスチャンもですよ?この世は地獄、天国に行くまでは我慢我慢、とか考える。もしくは神様は私たちが何か神社に行ってお賽銭でも投げたり修行しなければ答えない神、ないし心の拠り所程度で少し心が落ち着くレベルでしか考えない。しかし、あなたの死して後のいのちさえ心配される方、あなたのために最高のものを用意されている方がどうして、あなたの今に関心がないはずがあるでしょうか。神様の愛はそんな薄っぺらなものではありません。今のあなた、と言うよりもあなた自身に神様は関心を持ち、今日という一日中、いやあなたの生涯そのものの内にその御手を、愛を伸ばされ続け、あなたに必要な全てを与えようとしてくださっているのです。それでも私たちが拒否してるだけで。
そんな神様を神様と思わず、神を捨て他の物を神とするような、拠り所とするような私たちを神様はそれでも憐れまれた。あなたがその罪の清算で、永遠の刑罰・裁きを受ける事がないよう、救いの道をもあらかじめ示されたのです。それがこのイザヤの預言の中でも何回も語られた、救い主の誕生と贖い。あなたの罪を御子イエス様に背負わせ十字架に架けて死なせよう、それによってあなたの罪を帳消しにする、と誓われたのです。あなたがこのいのちを受け取ろうと願うなら、あなたが悔い改め立ち返るなら。あなたが呪われた者とならないために。神様が御子イエス様を十字架に架けられた死刑囚として呪われた者とされた。その御子イエス様のいのちゆえに。このイエス様の復活と共に私たちがイエス様を信じ受け入れるなら、私たちもまた神様と和解させていただき、この復活の恵みに与るのです。
そこからは最高ですよ?いやもちろんさまざまな迫害や苦難困難がある、でもそれってクリスチャンじゃなくてもあるでしょう?でもあなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与える方が、あなたの内に住まわれ、あなたの内に御心を現してくださる、愛を現してくださる、一日中、世の終わりまであなたと共に進まれ導かれるのです。
神様はあなたを愛している。あなたそのものを愛しておられる。天国に行くまでは放っておかれるのではない、あなたのうちに神様の愛が現されているのです。御子イエス様のいのちさえ惜しまず与える方がどうして、天国に行くまでは我慢がまん、なんていうでしょう?神様があなたの内に与えて下さったのは罪の赦しだけではない、昨日も書きましたが神様との和解、罪の奴隷からの解放と神様の子、天国民としてくださったのです。↑の新天新地の前味を、私たちは御子イエス様にあってあじわい受けることができるのです。救ってはい終わり、ではなく、ここから天の御国へ続く道が始まるのです。もう始まっているのです。
私たちはこの救いを喜ぼう、もう神様は非現実的だなどと言わず、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えることができるこの方に信頼しよう。あなた自身のために最高の救いの計画を成就された、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えて下さった方が、そのいのちによって買い戻された方が、あなたを導かれる。
さあ、このいのちを私たちは喜び楽しみ歩もうではありませんか。滅びの道に進むのではなく、御子イエス様によって新しくされた神様とあなたの旅路を。この旅路は御子イエス様を救い主として信じ受け入れるところから始まる。今日、このいのちを受け取り、主と共に歩み始めようではありませんか。