ー本当の癒しー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。『この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。』彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。『なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、【あなたの罪は赦された】と言うのと、【起きて、寝床をたたんで歩け】と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』こう言ってから、中風の人に、『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない』と言って神をあがめた。」

マルコによる福音書2章1-12節

 

イエス様は、私たちを癒したい。正確には、神様と断絶された関係を、罪により失われてしまったいのちを癒したい。この神様との和解された関係の中にすべてがある、これを信じることは幸い。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ(といっても、イエス様ご自身はこの天地万物が造られるよりもはるか昔から存在されていましたが、人となられた、という意味で)、人々の間に住まわれ、訪問され、そのご愛を現していかれていたときの、ある日の出来事。

 

イエス様がある家で神様の愛、お話をされていた時、ある4人がその友、中風( 脳出血・脳梗塞により、運動機能障害ことに痙性、片麻痺や言語機能障害をきたした状態。要するに脳血管障害)に苦しむ友をイエス様のところに連れてきました。

 

今から2000年前ですから今のように医療技術が発展しているわけでもなく、どうにもならないこと、と想像できるでしょう。絶望以外の何物でもありません。もう、藁をもすがる思いでイエス様のところに来ました。しかし、目の前のその家には人がいっぱいで中に入れない。ならば、と屋根をはがし、イエス様のところに彼をつるしながら降ろすのでした。まあ家主からしたらなんてことを、という感じでしょうが。

 

そんな彼らの「信仰を見た」イエス様は、この中風の男性に向かって、「子よ。あなたの罪は赦されました」とおっしゃられるのでした。あれ?癒してくれないの?っと思うところ。

 

私たちはとかく、癒し、奇跡などを求める。別にそれ自体は悪いことではない。でも、私が求めているのはこれなんだ、とイエスさまよりも、ただ自分の望むもの「だけ」を望む、でも、癒されてはい終わり、では寂しいではないですか。

 

もちろんイエス様は癒すことはできます、この後癒しますし。でも、イエス様はちょっと困ったことがあったら治してはい終わり、後は自分の好き勝手に生きな、とは言わない。イエス様は、「子よ。あなたの罪は赦されました」と、罪の赦しによって神様との和解を果たす、神様の「子」として迎え入れ、いのちの内に招きたい、これこそがイエス様の望みなのです。何か一部助け手終わりの薄っぺらな関係ではない、あなたを丸ごと愛し、受け入れる、それこそがイエス様の望みだったのです。その中に、癒しも、喜びも平安も、なにもかもから。

 

ただ、これに宗教家たちが噛みつきます。お前にそんな権限はない!何様だ!と。彼らは神神いってますけど、自分が神であることを結局は思っていた。権力、名誉を自分のものとして。しかし、そんなところには命がないのです。そんな彼らは彼に癒しを与える事さえできない、いや神様がせっかく和解を、とその御手を伸ばしているのにそれを払いのけて、どうして神様の恵みを、愛を受けることができるだろう。

 

でも、イエス様はそんな彼らにさえ、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせ」ようとなされた。イエス様との関係は宗教行為によって成立するのではない、神様と和解させていただいた中において、神様があなたの内にそのいのちを注ぐ、だからこそ、私たちは生きるのです。中風の男性だけじゃない、その友人たちだけじゃない、今いる宗教形や、家にいる人たちに向けて、このいのちを受けるよう、訴えるのです。

 

イエス様はその愛の究極を十字架に現された。私たちはとても神様の恵みなど受けるに値しない者。お前に赦す権限などない、の前に、私たちが神様に赦されることなどあり得ないはずだったのです。癒し、愛、赦しを、御力を現されるに値しない者だったのです。しかし、まず御子イエス様がそのあり得ない事を取っ払うため、私たちの自分を神とする高慢さ、この罪を取り除くべく、十字架にまず架かられた。私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ、死なれることによって、私たちの支払わなければならない罪の代価、死、裁きをその身に負ってくださった。神様と、身代わりに断絶された、その十字架上で、神の御子なのに。完全に罰せられ死なれたのです。

 

しかし、この身代りに罰せられたイエス様を見て、神様は良しとされ、よみがえらせてくださった。そしての復活と共に、私たちを神様と和解させてくださる、その救いを示されたのです。罪という最大の病(という表現が正しいかは別として)を癒されたのです。そしてこの和解、癒しの中に私たちを立ち上がらせてくださる。すべてがある。

 

イエス様があなたの内に住まわれ、働かれ、神様の御心が、御力が、愛が現されていく、私たちを建て上げ、新しいものとしてくださっていくのです。

 

私たちは今日、主のもとに帰ろう。あなたを癒そうと今日も主は待っておられる。