「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』女は蛇に言った。『私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と仰せになりました。』そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』そこで、神である主は女に仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。』女は答えた。『蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。』神である主は蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』」
創世記3章1-15節
神様の救いの計画は、はじめの人アダムとエヴァが罪を犯した直後から始まった。ポッと思いついてたてたものではない。神様はこの約束を反故にされる事なく実現成されたのだ。神様の愛はとこしえに変わらない。最後私たちが受け取るかどうか、そこに関るだけの話。
さて、↑は全人類が始まる時の話。最初の人アダムとエヴァという人の話。そして何よりこの時、イエス様誕生の約束が実はされたのです。神様は天地万物を造られ、すべての良い物を彼らの前に備えてくださっていた。エデンの園はまさにその最高の環境下にあった。神様は、彼らに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、善悪の知識の木以外からは何でも食べていいよと言いました。
この神様のことばにケチ、と思うか、気前のいい神様、と思うかは人それぞれかもしれませんが、神様が最善のものを備えてくださっているのに、それでは満足しない、と園の中央の木、つまり神様の主権に手を伸ばす事、それが問題なのです。神様は最善のものを備えている、だからそのの中央、神様の主権、神様の御心に信頼するように、そう訴えたのです。別にケチなんじゃない。
残念ながらエヴァは蛇の姿を借りたサタンのこの誘惑に負け、アダムはエヴァの誘いに負けてしまった。サタンのせい?それもあるけど、彼らはその言葉の前に神様の存在を考えた。そして自分で選びとった。エヴァも、アダムも。
これ、アダムとエヴァに関らず、人間だれしも陥る問題なんですよ?神様が自分に最善のものを用意しているのに、それを信用しないで、神様の主権を奪い、自分で何とかしようとする、ないし、他の神を求める。神様を神様の座から引きずりおろして自分が神になる、ないし他の神を据える。神様を信じられないから。追い出す。勝手にエヴァたちは神様のことばを変えたけど、そもそもの話が、自分たちで神様のイメージを作り上げ、押し込め、神様のご性質を変えようとしてしまったのです。
じゃあ神様はその後どうされたのだろう?神様はいきなり彼らを死なせなかった。食べた瞬間死ぬ、と言いながらも、悔い改めの機会を彼らに示された。アダム、どこにいるのか?神様は彼らの居場所は知っている。でも、彼らが悔い改める機会を与えたのに、彼らは責任転嫁をし始めた。神様が怒り狂っていたなら、そよ風の吹くころなんてありえない、暴風だのなんだの、と表現されるだろう。神様は彼らが悔い改めることを期待した。本当に彼らが死ぬなんて悲しすぎる。
しかしそれでも彼らは悔い改めず、ごめんなさいをしなかった。そこですぐに死刑判決が出たのかと思ったら、驚くべきことに↑の後半部分を神様が語るのでした。裁きの前に、まずサタンに向かって↑のように宣言されたのです。
誘惑したサタンに対して呪いの宣言をし、さらにはこのアダムとエヴァの間に救い主がやがて現れ、サタンを打ち砕く、と。かかとを噛みつこうと、このサタンは必ず撃ち砕かれる日が来る、そう宣言したのです。これが、実はクリスマスの約束だった。クリスマスの目的だった。
確かに、彼らの罪によって死が入ってきた(ちなみにエヴァの死んだ年はは分かりませんがアダムは900歳以上生きています)。物理的に神様と断絶され、エデンの園を追放されることになりますが、それによって霊的に神様との関係が断絶されてしまった。しかし神様は見捨てなかった。サタンに対する勝利宣言以上に、この言葉の対象としてアダムたちにとっては彼らを贖い救う救い主が誕生する、神様がそれでも見捨てていない、という愛のメッセージだったのです。そしてこの約束は変わらず、神様は彼らを見捨てることなく反故にすることなく、今から約2000年ほど前に御子イエス様はお生まれくださったのです。
人間は神様をその主権、園の中央、王座から引きずりおろそうとした。アダムとエヴァだけでないことは胸に手を当てればわかるでしょう。私は神様を認めない、私の思う通にしない神など神ではない、と。でもアダムとエヴァのように、私たちが実はその罪ゆえにその恵みの中から追放されたのです。しかし、神様はこのアダムとエヴァを探しに来られたように、あなたをも探しに来られたのです。失われたあなたを取り戻すために。本来は自分勝手に出て行ったのだから帰るなんておこがましいことなどあり得ない。
でも神様は私たちの罪をイエス様に身代りに背負わせ十字架に架け、身代わりに罰し死なせ、また3日目によみがえらせてくださったそのことによって、私たちの罪を帳消しにしようとされたのです。身代りに罪の代価をイエス様のいのちにって支払い済みとしてくださったのです。あなたを連れ戻すために。奴隷として?罪人として?違う、あなたの罪を帳消しにして神様の子として迎え入れ、神様とあなたの関係が回復・和解されるために。もうあなたの支払うべき死・罰は御子イエス様が背負ったんだ。それ程に私はあなたを愛している、さあ私のところに帰っておいで、と。
神様は御子イエス様のいのちさえ与えるほどにあなたを愛している。ならどうしてその神様を疑う必要があるだろう?どうして神様があなたに御子イエス様のいのちと共に良きものを与えて下さらないことがあるだろうか。あなたは御子イエス様がわざわざ人となって生まれ、そのいのちを支払ってでも、あなたを救いに来たんですよ?そこまでして取り戻されたのがあなた。どれだけあなたが効果で尊い存在に神様が見てくださっているか、考えたことがありますか?見捨てられてもおかしくない私たちのために神様がどれだけ涙を流し、血を流されたか。あなたを罰する気持ちを抑えて御子イエス様を罰する、その気持ち、分かるでしょうか?
あのクリスマスの日、神様は御子イエス様を十字架に架けるために送り出された。それがどんな気持ちだったか想像がつくだろうか?でもそれ以上にあなたが帰って来るなら、あなたがいのちを得るなら、そのためならと、涙をのんで送り出したのではないだろうか?
私たちはそのの中央から、神様の主権を奪う必要はない。むしろ奪った結果、神様からの恵みを失ってしまった。しかし、神様はあなたを見捨てることができず死を身代りに御子イエス様に支払わしてまであなたを連れ戻そうとされた。今日、私たちはこの神様の愛にどうこたえるだろう?神様はあなたを今日も待っておられる。クリスマスは御子イエス様を生まれさせ、送って終わりではない、あなたが神様の元に悔い改め帰って来て初めて意味があるのです。今日、私たちはこの愛を受け取ろう。そして神様の元に帰り、この恵みの中イエス様と共に歩もう。主はあなたのところに来られた。この愛は他の誰でもない、あなたのためです。