「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ、帰れ。』まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。…私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」
詩篇90篇3-17節
私たちの人生は本当にはかない。本当にあっという間に駆け抜けて行く。しかし、私たちの歩みを確かにするのは神様である。神様は、ご自身の元に帰れ、と訴えたのはまさに、本来私たちがあるべき神様を礼拝する、神様を神様として歩むその本来の姿、恵みに帰るように訴えている。その愛ゆえに。
さて、↑の詩篇は昨日の続きになりますが、モーセというかつてエジプトに捕らえられていたイスラエル人たちを解放するために神様によって遣わされたリーダー、彼がうたった詩、祈りです。モーセという人の詳しい事情は昨日の投稿を読んでくださいね。
まあ本当によく的を得た詩、祈りだな、と思わされますね。私たちの人生など本当にあっという間。何か問題があれば、嵐が吹けば、あっという間に飛ばされてしまうような。本当に空しい、だから人はその隙間を何とか埋めようと様々なものを求めて行く。
それは昔も今も変わらない。最初の人アダムとエヴァも、神様が自分に最善のものを与えていないと疑い、サタンの誘惑もあったが神様から離れてしまった。でも神様は彼らを見捨てず何度も彼らにその御手を伸ばされ続けた。それこそ「我に帰れ」と。あなたがたが捜しているのは、いのちは、ここにあるんだ、と。
神様は、私たちを造られました。永遠の昔から、あなたが産まれるよりも前からあなたに対して計画を持て。あなたの名前を知り、あなたの事を良く知っている。神様はあなたに最善の愛を注ぎたい。あってあなたは愛する子だから。だってそうでしょう?親がどうして子の不幸を計画しますか?子が生き生きと幸せに生きられるよう願い、また養い、導くでしょう。
神様はね、↑の逆、「千年が昨日のように過ぎ去る」あっという間な悲しいものとしてではなく、「今日という日が千年にも勝る」そのようなもので満たしたいのです。我に来よ、と。私たちは神様から離れては、それこそ「あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます」とあるようなものです。私たちは神様なしで生きられないのです。
だからこそ、神様は私たちのところに来られた。私たちが神様から離れ虚しい中を歩み、神様の子として受けられるはずのものを失い、死に向かうしかない私たちをとり戻すべく。塵に帰るしかない私たちにもう一度いのちの息吹を吹き込むべく。神様から遠く遠く離れて行ってしまた私たちを見捨てるどころか、そこまで降りてきてくださった。
私たちは神様に何度逆らい悲しませてきたことだろう。私たちを造られた神様を、私たちにいのちをくださった神様に何度裏切っただろう。神様からしたら、「我に帰れ」、どころか、もう帰って来るな、わたしの元から去れ、わたしとお前は無関係だ、と捨てられてもおかしくなかった。でも、むしろ神様は、そんな裏切り者と、塵に等しい私たちと無関係どころか、同じ姿、人となって来られ、人と同じ苦しみを味ってくださった。裏切り、悲しみ、ローマに支配されていた苦しみの時代の中に来られた。そして、事もあろうに、私たちが本来味うべき死、神様からの刑罰をその身に負ってくださった。十字架で身代りに死なれた。
私たちが神様に、お前など無関係だ、去れ、と言われる代わりに神の御子たるイエス様が神様に見捨てられた。そこまでされてでも、神様はあなたを取り戻したかった。神様と罪の奴隷という分不相応な関係ではなく、神様と塵の関係ではなく、神様と神様の子という家族関係の中に招き入れてくださったのです。これこそがクリスマスの究極の目的だった。最高のクリスマスプレゼントだった。
ただ、これはわたしたちの決断が必要です。どんなに神様がその罪の代価を身代りに支払ってくださっても、そんなものはわたしに入らない、神など私には関係ない、といているうちは私たちはこの救いを受ける事はできない。神様と無関係であることを私たちが選ぶうちは、私たちが神様から離れていては、どんなに神様がその恵みの御手を、愛の手を伸ばされても受ける事などできない。愛がない?違う、神様はその愛の御手をすでに伸ばされた、その御子イエス様のいのちを差し出してでも。私たち自身が最後は選ぶ、応答しなければいけないのです。
詩人が歌うように、私たちの齢を確かにするのは、健やかにするのは神様以外にありません。「人の子よ、我に帰れ」という愛、御子イエス様にあってこれを成就させた神様の愛に、私たちが詩人のように、「主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください」と告白、応答が必要なのです。
「帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください」という詩人の祈りは私たちの本音でもある。でも、すでにこれは御子イエス様にあって成就し、あなたが自分の罪を悔いあら改め、御子イエス様を救い主として受け入れるとき、私たちは神様と和解させていただき、本来ある健やかなあなたとなる。あなたに花を、実を結ばせてくださる。神様が。そしてそこから命がなお溢れさせて、神様の御心が溢れるのです。
神様と無関係とされるべきものが、神様の方からあなたに招かれた。「帰ってきてください」と私たちは言うが、神様が「我に帰れ」とその手を伸ばし待ってくださっているのです。私たちはもう引き返さない。もう神様に向かえって、帰れ、と言ってはいけない。むしろ自分の罪を、古い自分を引っ込め帰らせ、神様の御心をなしてください、と祈ろう。神様の懐に帰り、神様と共に歩もう。このいのちを今日いただき、歩み続けようではありませんか。あなたは御子イエス様にあって神様の子とされたのだから。