ー王を立てて下さるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。『しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。』『わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。」』」

詩篇21-9

 

私たちは自分の人生の王である必要はない。だって自分の人生を本当の意味でコントロールなんてできない。しかし、私たちを造られた神様が、私たちのために王を立てられた。御子イエスキリスト様を。

 

さて、12月に入り救い主イエス様の誕生をお祝いする季節がやってきました。ただ、私たちがイエス様を救い主として迎えなければ、このクリスマスは何の意味もなさなくなる、空しい空っぽのものとなるわけですが。↑の詩篇は、ある詩人に向けて神様が教えてくれた約束事、これを喜んだ詩。

 

その約束は、神様が王を立てて下さる、という話。ちょっと勘違いしてほしくないのは、あなたを王とするよ、という詩ではない、ということです。まあこの王をダビデ王やソロモン王と言った有名どころの王とする人もいますが、まあそれもあながち間違いではないのですが、これを詠んだのがダビデ王と考えるとどうなんだろう?

 

神様が、私たちのために王を立てて下さる。それがどれだけ素晴らしい話か。人間が選挙とかで選ぶ王ではない。私たちを支配し奴隷にしようとする王ではない。私たちを変革させてくださるのだ。この詩篇の作者は、心騒ぎ立て、虚しい現状に対して呟く者たちに向かって訴えていますが、私たちは神様から離れたところに、神様以外の王を、神を求めたところで虚しいばかりです。なぜ?それはあなたを保証する事はないから。あなたを生かす事はないから。

 

この世の現状を支配する罪、サタン。聖書になじみのない人でも世の中を見回せば、本当に暗闇、というのは分かるでしょう。不確実な問題、痛み、悲しみ、人間関係、病、その他諸々。私たちはこの暗闇の中にいる。私たちは神様から離れてしまったから、ある意味自業自得。神様なんてどうせ何もしないんでしょ?神様は自分の思う時に思う通にしてくれないし、本当に愛しているの?私に良い物をくれているの?と疑い、他の存在しない神々を、王を求めに彷徨い出たのだから。

 

しかし、神様はそんな暗闇の中にいる私たちをそのままにされなかった。罪に囚われ、暗闇の中にいて、神様から断絶され死に向かう私たちを。だから神様はいつでも民が苦しんでいる中でも憐みを示された。でも神様を求めないでいる…

 

そこでついに神様は、この↑の詩篇で語られた約束を成就された。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」、御子イエス様を人としてこの暗闇の世界にあって生まれさせてくださったのです。いや、天地万物のできる前よりキリスト様は存在していたのですが、人として、神であられるのに人としてお生まれさせてくださったのです。でも、それは何かの気まぐれでも、時々助けるためでもない、私たちの王となられるために来られたのです。

 

私たちが騒ぎ立てる悲しみや多くの苦しみ、重荷、病、私たちをあざける様々な問題を打ち砕く、いや、それだけではない、神様と断絶され、罪という足枷を、古い私たち、罪・死をその鉄の杖で打ち砕くために来られた。今から約2000年ほど前のクリスマス(まあ厳密には12月ではないんですけど)に。

 

悲しみの中、暗闇の中、道が分からず彷徨っている人を一人一人捜しに来られ、光を照らされ、最後は十字架に私たちのすべての重荷を、罪を背負い、身代わりに十字架で罰せられ、死なれ、なお3日目によみがえられたことによって、これらに完全に打ち勝たれた。この光なるイエス様の前に暗闇は打ち勝てなかった。そして私たちがイエス様を救い主として、自分の王として信じ、あなたの内にお迎えするとき、この復活のイエス様があなたの内に住まわれ、あなたの内に↑の詩を成就させてくださる。昔聖書にあった事、ではなく、あなたの内に神様の愛が注がれ、神様の御心が現される。あなたの王として。

 

もしあなたが自分をとらえる鎖があるなら、これから解放されたいなら、いや何より罪の奴隷から解放されたいなら、主は語られる。「わたしに求めよ」と。主があなたを新しくしてくださる。罪の奴隷としてのその鎖から解き放ち解放し、神様の子としてくださり、自由とされる。神様があなたの内に新しいいのちを与えて下さる。あなたを造られた方があなたの名前を知ってくださっている方が、あなたのために命を投げ出された方が、あなたに応えて下さる。

 

↑の詩篇を、自分を王とすると詠むか、神様があなたのうちにイエス様を王として立ててくださった、と詠むか。ここが分かれ道。イエス様の誕生を誕生で終わらせてはいけない、イエス様の十字架を出来事で終わらせてはいけない。あなたのために注がれた愛として受け入れる時、これは本当の意味で意味のあるものとなる。これは他の誰でもない、あなたのためになされた御業です。あのクリスマスは、あの十字架はあなたのための物です。

 

さて、あなたの王は誰ですか?今日、あなたの王として来られたイエス様をお迎えしよう。ここから本当のあなたの物語・神様との新しい人生が始まる。