「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。』そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。」
創世記13章14-18節
私たちはここぞという時に困惑する。でもその時も神様は私たちに御目を注がれ、語られている。私たちはこの声に耳を傾けよう。そして主と出会った今こそ私たちは神様に信頼し歩もう。
さて、↑の出来事は紀元前1800年くらいかな?中東イスラエルでの出来事。その地域に住んでいたアブラハムという人物と神様の対話。彼は偶像を造る地域に住んでいるも、その空しさを感じ、まことの神様を求めていたとき、神様が彼を、私の示す地に生きなさい、そうしたらあなたを祝福しよう、と連れ出されたのですが、途中そのあまりの祝福に財産がとても増え、一緒についてきていた甥のロトと袂を分かつ事になった、そうして別れたところで神様が語られたのが↑。
ところで、最近アブラハムの分かち合いが多くてごめんなさい、最近改めて感動させられることが多くて。いや、アブラハムが、というよりもアブラハムを通して神様が働かれている事、語られている事があまりに凄すぎて。
話しは戻して、「ロトがアブラハムと別れた後」、神様はアブラハムに仰せられました。今、自分の子のように愛したロトと袂を分かち、しかも彼があまり好ましくない方向に歩んでいってしまった。今アブラハムは親しい人間関係の破綻の悲しみがあったでしょう。さらにはアブラムは信仰による選択をしたにしても、目の前に広がる土地、そこは山岳地帯であり、乾燥して、土地も痩せた地域でした。現実に見れば絶望するような土地しか残っていません。
そんなアブラハムに、神様は、ロトと離れた悲しみと、目の前に広がる土地に絶望することがないように、と神様が「目を上げて、見よ」と声をかけたのです。神様が目を上げよ、と言うということは、見上げさせた先に何かがあるからです。神様の御ことばに促され、神様の目で目を上げる時に神様は必ず何かを見せてくださるのです。例えば聖書の中を見ると、ラザロが死に伏した時に、イエス様はマルタとマリヤと共にいて、涙を流し、彼らの顔を上げさた、その時よみがえり、復活の希望を見ることができたように。
これ、すごく大事な話だと思うんです。私たちは神様の愛と恵みによって生かされる存在。神様が私たちにこのいのちを備えてくださった、その神様のくださった今を、いや神様ご自身を見上げる事の大切さを。
神様はアブラハムにこのように続けて言いました。「あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから」。神様が、この土地を与え、この土地の内に神様の祝福を、いのちを与える、全部。あなたが北だろうが南だろうが東に行こうが西に行こうが、神様が導かれる、と。神様があなたの内に豊かにはたかれるのだから、と。彼をここまで連れてきてくださったのは神様。その神様の御手に彼があるという事を思い出すように、と。
この話はアブラハムだけの話ではありません。私たちは神様によって造られた存在です。にもかかわらず、私たちは神様から離れてしまった。神様を神様とせず自分の召し使いのように考え扱い、そのようにしか見ずにいる。そんな神様に私たちなど見捨てられてもおかしくない。しかし神様は御子イエス様を通して私たちが救われる、神様の元に帰る事ができるようにしてくださった。その道を、神様の愛を、何より神様と罪によって断絶されてしまったその道を御子イエス様が十字架に私たちの身代わりにかかり、身代わりに死なれ、なお3日目によみがえられたことによって、私たちは和解させていただいた。
私たちに神様はこの愛を注がれたんですよ?私たちが神様の前に悔い改め、この救いをいただく時、私たちはこの御子イエス様のいのちによって神様と結ばれるのです。この御子イエス様のいのちにあって、私たちは神様によって保障されるのです。あなたのいのちは御子イエス様のいのちによって買い戻された者。神様がそこまで愛されて取り戻されたんです。私たちはこの事を覚えましょう。この十字架に示された神様の愛を見上げよう。あなたの今は御子イエス様によって新しくされた今なんです。新しいいのちなんです。神様が、与えて下さったんですよ?
この恵みはタダです。私たちがただイエス様の十字架の前に悔い改めるだけで、ただで受けることができる。↑のアブラハムへの約束は御子イエス様の十字架によって私たちも受けることができるのです。どんなに荒涼とした場面であろうが、悲しみ、痛みの中にあろうが、イエス様があなたの内に住まわれ、あなたが東西南北どこにいようが導かれる。あなたの踏む地一歩一歩の内に神様の愛が、御心が現されていく。
アブラハムはこの言葉の前に応答し、神様についていく決断をしました(祭壇を築いた。この神様と一緒に生きて行こう、と)。あなたは主の十字架の前を知った今どう応答するでしょうか?
