ー神様が共におられるから、大丈夫ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。主は私にこう仰せられた。『あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。』それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。…」

申命記21-8a

 

大丈夫、ということばはあまり軽々しく使うべきではないのかもしれない。でも、一つだけ確かな事がある、それは神様が共におられる時、それはすべてOK、大丈夫、と「神様が」してくださる。私たちはこの神様にもっともっと期待していきたい。

 

さて、↑のことばは、かつてイスラエルの民がエジプトに奴隷として捕らえられていたときに(といってもかつてある一人のイスラエル人を通して神様が働かれ、救ったという事があった、総理大臣として救ったという出来事があったのですが、そのことを知らない王朝が起こってしまったため)、神様の憐みによって、モーセを通して神様は彼らを救い出され、かつて彼らの先祖に誓われていた地に、与えると約束されていた、乳と蜜の流れる地、神様が祝福される地にいよいよたどりつこうとしていたとき、神様がモーセを通して↑のように語られたのでした。

 

その道中、神様はその道中通れば楽となるエドムという地と、この続きになるモアブという地に対して争わず、敵対してはならない、とイスラエルの民に伝えるのでした。まあ、↑では短くまとめられていますが、実際は使者をちゃんと遣わして通っていいか、とお願いしに行くのですが。

 

実にそのエドムという国とモアブという国はある意味でイスラエルの兄弟国のようなものですから、神様は彼らにも祝福し、土地を神様が与えていた、だからそこをあなたがたが奪ってはいけない、というわけです。

 

と、あまり古代の時代に詳しくない方のためにざっと流れを説明しましたが、私、思うのですが、これはエドムとモアブという兄弟国に与えていた土地以上に、神様はイスラエルにもっと良い物を、十分な土地を与えるから、だからそこを責める必要はない、そういう訴えもあったのではないか、と思うのです。神様はモーセを通してこう語られていますよね。「事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった」と。

 

これまでも、神様が共にいて、いつも欠けがないように導かれてきたじゃないか、何にもない荒野を通っている時でさえ、40年間いつも養ってくださっていたじゃないか、と。あなたが通ろうと思っている場所は今あなたには必要がない、神様がもっと良い物を与えて下さるんだから、と神様は訴えるのです。他ならぬ神様が共におられるのだから、と。

 

私たちの人生の旅路というのは時には↑のイスラエルの民のように回り道となる期間があるかもしれない。もしくはなんでそんなところを通らなければらないのか?と思う時期もあるかもしれない。だったらどうしてもっと別なところを通らせなかったのか?と思うような事があるかもしれない。

 

でも、私たちが忘れてはいけないのは、私たちの旅路、昨日は私たちは地上の寄留者である、神様は共にこの旅を進まれる方である、と書きましたが、この旅路、生まれてから天の御国に帰るまで、その道を整えてくださった、整えて下さるのは神様です。あなたにいのちを与えて下さったのは、あなたを造られたのは、他でもない、神様です。その神様が与えて下さった生涯ですから、どうして私たちは神様に期待しないでいられましょうか?

 

それは人生山あり谷あり、順境の日もあれば逆境の日だってあります。でも、あなたを造られた神様は、かのアダムとエヴァに最高の環境、食べ物、住む場所、パートナー、ありとあらゆるものを備えてくださっていたように、あなたにあらゆるものを備え、養ってくださり、守ってくださり、私たちが欠けている、と思う中においても欠けさせず、満ちたらせてくださるのです。しかも、神様ご自身があなたと共に歩まれながら。

 

ただ、私たちは今も書きましたが神様では物足りない、自分の必要な時に自分の思う物を与えない神様に満足しない。これ本当に人の弱さ。そして本来私たちの旅路を共に進まれる神様から離れ自分勝手な好きな道を進むようになってしまった。これが罪。

 

でも私たちが自分を保証してくださっている方から離れてどうして生きていけるでしょう?養い主から離れてどうして生きられるでしょう?でも神様は私たちを満ちたらせたいからこそ、エドムの道から離れさせ、私たちの好き勝手に生きる道から離れるよう訴えるのです。罪のあるところ、神様から離れたところにはいのちも喜びもなく、最後に待っているのは死だから。

 

だから私たちを連れ戻すべく、神の御子たるイエス様を私たちに遣わされ、その愛を惜しむことなく注がれ、私たちに神様にあるいのちの道を語られ、最期は私たちの代わりに死を引き受けるべく、本来私たちがそのまま進むはずだった死・裁きの道を進まれ、死なれ、葬られ、陰府に降られた。またなお私たちをその死の道から復活させられることによって、連れ出されたのです。捨てられてもおかしくなかった私たちの神様ともう一度なってくださった。そしてこの十字架による身代りのいのちゆえに、あなたの生涯は保証されるのです。死して後、天の御国に行くその日まで。

 

あなたのいのちは、生涯は、その行く道は、1日1日は、御子イエス様にあって保障されている。だから大丈夫。今回り道しているように感じようと、順境の日と感じようと逆境の日と感じようと、今この瞬間主が共におられ、満ちたらせてくださるから。あなたの欠けは御子イエス様のいのちによって、埋められ、天にある全ての祝福をもってあなたを神様はどんな時にあっても満ちたらせてくださる。

 

この世の保証する物ではない、御子イエス様のいのちにあって保障されるあなたの1日1日、天の御国に行くその日まで。私たちは大いに神様に期待しよう。もう他の偽の神々にいのちを求めに行くのはやめ、方向を変えよう。神様はあなたが考える以上に全てを保証し、ご自身の祝福で満ち溢れさせてくださるから。