「また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。」
創世記8章8-11節
私たちには帰る家がある。養い主なる神様の待つ場所がある。家に帰ったところに待っている方がいる。何という恵みだろう。神様が、あなたを待っている。
さて、↑の箇所は有名なノアの洪水の話の途中。地上に悪が満ち溢れ、ついに神様が洪水によってノアの家族8人を除いて滅ぼすことを決断された。重い重い、悲しみをもって。何せ100年待っても彼ら以外悔い改める者はいなかった。そしてついに洪水の日が来て、地の全面が覆われた。そして150日、ノアの家族と、動物たち1つがいずつ、彼ら以外は打ち滅ぼされてしまった。そうして裁きの終焉を告げるがごとく風が吹き、水面が静かになりました。水が引き始め、同時に大雨がやみ、アララテ山脈の一つ(現在のアルメニア、昔のアッシリヤの北域)に無事に着き、動かなくなりました。
そんな中、ノアは箱船から出れる状態なのか確認すべく鳥たちを放って行きます。休める場所があれば帰ってこない、↑の箇所のように羽を休める場所があるか、などなど状況を知ることができるわけですね。
さて、この鳩の行動は私たちにとってもすごく大事な事なんですよね。というのも、ノアたちが乗っていた箱船というのは、神様が裁きから守るためにノアに用意させたものであり、また洪水の最中にあっても彼らを守り、また養われていた場所です。鳩は、この箱船から出発し、自分の休まる場所を探す。でも、どこを探しても荒廃とした中にいる。疲れ、どうにもならない、安息を、神様が養われている箱船以外には見出す事は出来なかった。その鳩は自分の主人(飼い主)の場所へ、神様の養われる、安息を与える神様の元へ帰って行くのでした。ノアもこの鳩の様子から、外に安息がないことを知り、なお箱船の中に留まる。神様の養われている場所に。
でも面白いのはまだある。鳩は別に飼い主のところに帰らなくても、雨はやんでいるんだから、人の手のところ、飼い主のところに帰らなくても自由だ。特にオリーブの葉を見つけたというなら、別に自分で箱舟と行き来して生きようと思えば生きれる。完全に地が渇いた後は事実鳩は飛び立って行ったわけですし(その鳩もちろん神様は養ってくださっていた)。ただ、鳩は主人の元にいることを選んだのでした。
私たちは教会の外に出れば、世に出れば様々な事がある。波乱万丈。戦いもあれば疲れ果てる事もある。どうやって私はこんな荒野を生きたらいいのだろう?そう思う日もある。私たちはどこに安らぎを出は求めるのだろう?神様を知らない人だってそうでしょう?安息を求め、自分に喜びをもたらす何者かを求め彷徨う。家族?仕事?人間関係?趣味?
実は私の先祖・5代前(私が5代目だから4?)?は神童と呼ばれる程の天才、良い家にも住んでいたけど、ある日家は全焼、両視力は失われ全盲となった。彼は救いを求め、ありとあらゆる哲学や宗教に救いを求めるも何一つ喜びを見出す事は出来なかった。彼の心をいやす事は出来なかった。何も見えない、休まる場所がない。こんな生きている価値がどこにあるのだろう?と思えるような状況の中、ある時ある伝道師を通して彼はイエスキリストと出会った。こんなどうしようもない、世から価値なし、と判断されるような自分と出会った。こんなどうしようもない世から捨てられた私を神様は見捨てず救ってくださった、と。
彼の視力は別に回復したわけではなかった。しかし、このどうしようもない神様の前からさえ無価値としか思えない者のためにご自分の御子イエス様を十字架に架けられ死なれ、またよみがえられたことによって、罪深い自分を、どうしようもない自分を買い戻してくださり、神様の家族・箱船の中に招き入れてくださった、今彼の生涯の道を養い導いてくださっている、彼の内に住まわり、主・主人となって彼を養い育て、導かれている事に彼は本当の安息、喜びを見出した。そして牧師となって東北銃を迫害されようとも凍傷になろうとも伝道師、最後まで神様を恨むことなく賛美しながら神様の元に、本当の安息の場所へ帰って行った。
神様は、箱船の代わりに、私たちに救いの船、十字架を与えられた。御子イエス様を十字架に架けられ、そのいのちによって私たちを裁きの洪水から、罪の中、暗闇の中から、絶望から、救い出され、買い戻され、ご自身のものとされた。ご自身の養いの中に入れてくださった、私たちの紙、主・主人となってくださった。それは私たちと和解され、親子関係、養い導かれるその中に入れてくださったのです。私たちに帰る家を用意してくださったのです。帰る家があり、私たちに食事・休息・安息を与えて下さるのです。あなたの父なる神様となられた主は、あなたを休ませ、力づけたいと待っておられるのです。
私たちは孤独ではない、帰る家がある。御子イエスさまさえ惜しまず十字架に架けて死なせるほどに愛された方があなたを待っておられる。私たちはこの箱舟の中、養いの中、イエス様の中にあって平安を得る。安息を得る。また地に出て行くその力をいただく。私たちはやがてオリーブの枝を得る日、本当の安息を得る日が来る。その前味を私たちはイエス様にあってあじわうことができる。今主にある交わりの中で、神様のいのちが、愛が、御心があなたの内に溢れるのです。
私たちは日々、この主・主人である神様の元に帰り、ここで養われいのちをいただき、この神様に信頼し歩もうではありませんか。あなたの内に住まわれる主が、あなたの内に栄光を、良き計画を、御心を現されるから。あなたには帰る家がある。養い主なる神様の待つ場所がある。家に帰ったところに待っている方がいる事を覚え。