「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼に神の救いはない』と。セラ/しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ/私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ/」
詩篇3篇1-8節
私たちは結局最後は神様が最善をなしてくださることを信じるかどうか。ここにかかってくる。最後まで信じ切れるか。信頼できるか。私たちはその時最後には、神様にある勝利を得るのです。神様は象徴的な「物」ではなく生きた神様。私たちはそれでも、神様あなたに信頼します、と告白し続けたい。
さて、↑の詩は、イスラエルの2代目の王、ダビデが詠った詩です。しかもこの状況は本当に厳しい状況にありました。彼は自分の息子、アブシャロムという息子に、自分の最も寵愛する息子も彼に殺され(といってもその息子も問題を起こしていたのですが)、しかもクーデターを起こされ、国を追われてしまうのでした。国王であったのに。これまで彼を愛していた民も、アブシャロムの策によって心を移されてしまった。ある意味で彼は何もかも失った、そんな状態で↑の詩を詠むのでした。
もう本当に絶望的な状況。普通なら、なぜ神よ私をこんな目にあわせるのですか!私を愛しているならどうしてこんなになるのに放っておくんですか!そう叫びたくなるでしょう。
私たちだって、私たちの前に立ちはだかる人、と言わずとも問題や悲しみであったり。いつまでこんな状況にいなければならないんだ、そう思うときだってある。他の人が彼に神の救いはない、ほら信じたって無駄じゃないか、そういうかもしれないし、自分自身で自分に向かってそう叫ぶこともあるかもしれない。
でもダビデはほら神など信じたって何の意味もないではないか、と切り捨て諦めるのではなく、むしろ↑のように祈った。告白した。「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」と。
これ、本当に大事な事だと思うんです。私たちは神様を自分に役立つ「物」、何かほかの宗教と同じように自分に利益をもたらすための物的に考え、自分に利益をもたらさないと捨てる。こんなものはいらない、と。本当にそう陥りやすい。私たちが神様をそういう「物」的な位置づけで考えていると、私たちはもうどうしようもならない。
でも神様はそんな「物」ではない。生きもしない死んだ、偽の神、張りぼてでも、何か存在するんだかしないんだかわからないような不確定な何かではない。今も生きておられる神様なのです。感情もある、生きた神様なのです。神様は神様に帰る人を、立ち帰る人を、黙って見ている事はできない。だってダビデも私たちも神様によって造られた大切な存在だから。
だからダビデは、神様は動かないそこいらにある偽神ではない、今も生きて働かれ、このイスラエルを祝福し、私をとらえ、王として神様が建てられたのだから、神様が私の生涯を保証してくださっているのだから、ただ信頼しよう、そう決めたのです。必ず答えて下さる、そう信じたのです。
それが彼の行動に現れました。「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない」と。彼は神様が寝ている間も、明日も神様が支えてくださるのだから、ただ神様がなさることをもう待とう。神様を信頼せずにじたばたするのではなく、神様がなされることを待とう、神様が今この苦難の中でも支えてくださるから、ただ待とう、救いの日を、いや今主の御手の中にあるのだから救われている、ただ勝利の日を待とう、そう決断するのでした。彼は神様のもの、なら神様をただ信じ待ち望もうと。
神様はこの祈りに対し、もちろん彼を具体的に助け、彼は王として回復していきます。実は彼はクーデターより少し前、神様の与えた妻に満足せず、不倫→隠蔽殺人の指示をするというもうどうにもならんことをしたのでした。もちろん彼は罰せられますし、骨が干からびるほど痛い目にあいます。そんな彼の↑祈りにどうして神様は応える必要があるだろう?それでも、神様は悔い改め立ち返ったダビデを受け入れた。これが神様の愛だ。悔い改め立ち返るものを見捨てられない。
私たちもそう。本来こんな助けてください~なんて祈りをどうしてすることができるだろう?どうして神様が支えなければならない?でも、ダビデの支払った罪の報酬のように私たちも神様を捨てたのだから、罪の報酬である死を受けなければならない、しかしその罪を御子イエス様に負わせることによって、私たちがこのイエス様の前に悔い改め立ち返るなら、私たちもまた神様の子とされ、神様との関係が回復されていくのです。
そこまであなたを愛し抜かれた、今も愛しておられるイエス様を、あなたは信じ切れますか?あなたは御子イエス様のいのちにあって買い戻され、神様の子とされた、イエス様が今あなたの内に住まわれ、支え続けてくださっているんです。それでも私たちは神様を便利な「物」程度に考えるか、それとも救い主として信じ受け入れ神様と共に生きるか、この神様に信頼し尽くすか。
今日、私たちは神様と共に生きよう。主があなたにどんなに良いことをしてくださったのか、その十字架に示された愛を思い、ただ信頼し、「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない」と告白し続けよう。あなたを今日も御子イエス様にあって支え続けて下さる神様に信頼し歩もうではありませんか。