ー本音ー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして29) | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして29

「私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」

詩篇7321-26

 

9月6日未明に起きた北海道大震災。明日でようやく1か月となろう時に、ここ最近本当に余震がよく出てくる。今朝に至っては震度5弱。友人からもこの震度を見て何人かから連絡が来ましたが、またか、と私自身も本当に心が痛みます。私は別にいいんです。でも、今回の震災で大きなダメージを受けている人たち、未だに立ち直れない人たちのことを思うといたたまれなくなります。

 

何かこういう事を書くと不信仰だな~なんて言われるかもしれないんですけど、ふと思ったのは、こういう事を隠し立ててもしょうがないのでは?と思うわけです。人間ですもの。

 

ただ、私は↑の箇所を、詩を思い起こしたんですよね。↑の詩人は苦しみの中で、本当に右往左往して、心突き刺され、どうしようもなくなった中にあって彼はこの思いを「主に」ぶつけた。本音で。自分の正直な思いを神様に打ち明けた。私が思うのは、本音をもっていい。それを神様に打ち明ければいいんです。むしろ本音を隠してうわべだけの神様との関係を持つよりも、私たちの思い煩いを神様に聴いてもらう。神様に委ねる、その御手に渡す、これ、とても大事だな、と思ったんです。

 

自分で我慢して、内側にとどめて、苦しんで、悩んで、彷徨って。でも、神様はきれいごとを並べた上辺だけの関係だけを欲しているわけではない。もっとあなた自身と親密な関係を持ちたいのです。神様が私たちの思い煩いを知らないと出も思いますか?知っておられるのです。↑の詩では詩人が自分で神様のそばにいた、と言いますが、神様ご自身がそばにいたんです。私たちの苦しみの時に。私たちが知らないでいた時、実は神様は私たちを背負ってくださっていた。神様は私たちの涙をぬぐい取ってくださり、私たちに語り諭し、導かれるのです。

 

あまり御言葉の分かち合いで聖書以外のところを持って来たくはないのですが、マーガレット・F・パワーズさんという女性の方が素晴らしい詩を書き上げました。

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね した。『主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません』主はささやかれた。『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。』」

 

神様は私たちと上辺だけの関係を願うんだったらわざわざ神の御子たるイエス様を私たちのために人として生まれさせ、生きさせなかったでしょう。当時の宗教家たちも一応は神様という存在を信じていた、でも本音の関係ではなく上辺だけ生贄をささげたり、それっぽい上辺だけの宗教行為はしていた。でも自分自身を神様に差し出せなかった。

 

でも、私たちはそんな上辺だけのいけにえだの、宗教行為をしたって本当の生きた者になる事などできない。だから、イエス様は私たちの持つすべてを背負われ十字架に上って行かれた。病も、苦しみも、痛みも、何より私たちの最も重い苦しみ、罪による神様との断絶された関係を取り除くため、本気の愛を神様は示された。私たちの罪の身代わりに御子イエス様を十字架に架けるという選択をされた。

 

あなたが神様から離れて行ったというなら、わたしが探し出そう、と御子イエス様を遣わされた。あなたが道に迷い、痛み苦しむというならその手を取ってそこから救い出し、諭心を癒され、十字架を通して神様との和解、神様の子という最高のところへと導いてくださったのです。一部ではない、あなたを丸ごと買い取ってくださり癒してくださった。受け入れて下さるのです。あなたが神様の前に素直になり、主よあなたなしでは私は生きられません、あなたが必要です、と悔い改め立ち返るなら、悔い改めるなら。

 

神様はご自身の本気の愛を御子イエス様を十字架に架けて死なせるというあり得ない方法を持ってまで示された。それほどまでに本気であなたを神様は愛された。まるごとあなたを取り戻された。ならば、私たちは神様の御前に正直に、獣のようになってでも良いから、自分を偽らず、求めていきましょう。主に帰りましょう。日々、「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」と告白し、もっと親密に主と共に歩もう。あなたの内に神様は御子イエス様にかけてご自身の愛を持って御心を成してくださるから。