ー神様が覚えてくださっている、ということを忘れないー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして28 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして28

「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである。アダがエサウにエリファズを産み、バセマテはレウエルを産み、オホリバマはエウシュ、ヤラム、コラを産んだ。これらはカナンの地で生まれたエサウの子である。エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである。」

創世記361-7

 

9月6日未明に起きた北海道大震災。そしてそれによってライフラインの断絶に全道規模のブラックアウト。あまりニュースで流れなくなったので、復旧している?なんて思いたくなるところ、そうでもない。未だに電気を使えず街の明かりが薄暗くなってしまったところ。人の憩いの場所が真っ暗になっていたり。私もふとそこを歩いて見てびっくりしました。また、そんな物理的な話を超えて、家族を失った人や家を失った人、これからの生活が不透明となってしまった人などまだ多くいる。

 

何かそんな状況の中にいると、自分がどこに心の支えを持ったらいいのだろう?と多くの人が直面します。震災に限りません。私たちの歩みの中で中身が違うだけで多くの闘いや悩み、色んなものに直面します。その中で私たちは何を支えにするのか。いや、私たちが忘れてはいけないのは、私たちが支えにする者を選ぶのではなく、私たちが神様によって支えられ、今日生かされている、ということを覚える事なのです。そんなことを改めて今回震災を体験して、↑の箇所から思い出させていただきました。

 

↑の話は、エサウという人の系図、歴史の記録です。聖書の中には様々な人の家系図が載っていますが、まあ大半は主流と言われるような人たちの流れです。イスラエルの元となったアブラハムの長子の流れ。エサウという人もアブラハムさんの子孫、まあ孫にあたるのですが、彼の神様からの祝福の流れは弟のヤコブの方に渡されていきました。聖書では特に、彼が空腹のためレンズマメスープ一杯でその長子の権利、神様の祝福を、神様の御心をいらない、と売り渡した、と結構厳しく書かれているくらい。

 

じゃあ神様はそんなエサウを元々愛していなかった?いや、違うんです。もうこんな神様のくださる祝福をいらないなんて捨てる奴等知るか!と見捨てたのなら、わざわざ聖書の系図になんか残さない。彼は自分では知らないだけで神様は本当に豊かに彼を祝福し養ってくださっていたのです。長子の権利、イスラエルの本筋の流れからは外れて行ったとしても。まさにその記録が↑の子孫や財産の数々、またこの先に(長くなるので省略しましたが)王が出てきたり、国が建て上げられていったり、彼の内にも神様は覚えていてくださっていたのでした。

 

ところが、当時のエサウの住んでいた辺りの歴史の記録によれば、どうもせっかく弟ヤコブと仲直りした、和解したはずなのに、その後彼がついてこなかったことを赦さなかった、自分でキャスティングボードを握りたいのに、ついてこなかったことを恨み、またヤコブ一族、イスラエルの一族が祝福されていくことに徹底的に恨みを持って行った、と記録されています。聖書の中でも、イスラエルの祝福をねたんで攻撃を仕掛けてくる、徹底的に邪魔をし、弱っている時には兄弟国であるにもかかわらず笑い嘲っていた、ともあります。

 

でも、もし彼らが神様の前に悔い改めていたらどうだったのだろう、と思うわけです。彼らを神様は祝福してくださっていた。彼らはイスラエルをうらやむ必要などなかった。神様はエサウにはエサウなりの計画があった、でも逆恨みし、神様から徹底的に離れる道を選んだ。私の思う通にしない神など神ではない、と。せっかく神様は彼らの財産も子孫も繁栄させてくださっていたのに。わざわざ彼らの系図を残し、神様は覚えてくださっているということを思い起こさせたんです。神様は彼らを覚えていたのです。

 

彼らは神様がいる事はもちろん知っていた。でも知っているだけで、神様ご自身が彼らの内に働いていたことを忘れてしまった。神様が善をこの状況の中においてもなしてくださる、と信じることができなかった。それがある意味でヤコブとエサウの分岐点となった。

 

私たちだって本来、エサウのように神様の祝福を受け継ぐ権利などないんです。だって私たちは神様をすぐに捨てるから。こんな神などいらない、と他の自分を満足させる操り人形的神を求める私たちなど。とっくに見捨てられてもおかしくはなかったんです。

 

でも、神様はエサウがそれでも帰って来るのを待っていたように(裁きの宣告がされたのは、この箇所から見ても本当に数百年以上も先の話で、帰って来るのをいつでも待っていた)、私たちが神様に立ち返るのを待っているのです。覚えていらっしゃるのです。イエス様も、「父(神様)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」とおっしゃられました。

 

神様はもう愛さない、と決めたらそうすることもできる。でも神様はそれでも私たちが見捨てられないから、その御目を注ぎ、養ってくださっている、ここに救いがあるんだ、といつもその道を示してくださっているのです。こんな状況に神などどこにいるのか?なんて思いたくなる中にあっても神様は私たちを見捨ててなどいない。

 

だから、その究極の太陽、恵みの雨を私たちに注ぐべく、私たちへその愛を示すべく、ご自分のひとり子なる御子イエスキリスト様を私たちの内に遣わし、存分にその愛を示された。それこそ、社会的に見捨てられている人、またこんな人が赦されるはずがない、という人、死刑囚の横にさえその足を進められ、彼らの必要に答えて行った。そして、私たちの最も必要な罪の赦し・神様のとの和解を果たすべく、私たちが本来支払わなければならない罪の報酬、死を身代りに背負われ十字架に架かられ、死なれた。

 

義人だけ救う、というなら一体誰が救われるだろう?しかし、「父よ彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と、目の前で罵る者たち、十字架に架けた者たち、裏切者の弟子たちが何か悔い改める前にまず父なる神様に祈り懇願された。まずイエス様がご自身の愛を示されたのです。もしあなたの事を見捨てるなら、他の人は赦すけどおまえは赦さない、〇〇は赦さない、と十字架上でその人たちの名前を列挙しただろう、しかしそれをなさらず、私たちが悔い改めるならその罪がその十字架において支払い済みとしてくださった。神様と和解させてくださったのです。

 

私たちは神様からエサウが受けている以上の最高の資産、御子イエス様のいのちと共に、罪の赦しと共に、神の子とされ、天にある全ての霊的祝福を受け継ぐ、あなたの内に神様の御心がなされていくのです。私たちは神様という存在は知っている。でも神様がどれだけあなたを愛しているか、そのことを忘れてはいないだろうか?あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛されている方があなたに今日も御目を注がれ、あなたの内に住まわれ、ご自身の愛を、御心を現そうとあなたが帰るのを待っておられる。ここが、イエス様の十字架こそあなたの分岐点。

 

今日主の前にひざまずき、主と共にこの道を歩み続けよう。その足を支えるのは、あなたのために父なる神様にそのいのちをかけて許しを懇願された御子イエス様。その主が共にいる事を今日も覚え歩もう。