(9月6日未明の北海道大震災で被災をして23)
「ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。彼の次はハラル人アゲの子シャマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、彼はその畑の真ん中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利をもたらされた。三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。ダビデはしきりに望んで言った。『だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。』すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。『主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。』彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。」
Ⅱサムエル記23章8-17節
神様は、どこか高いところで見ているだけの神様ではなく、時には御使いを送り、時には受肉前のイエス様(ようするにクリスマスの時に誕生する前の)を送られ、時には誰かを送られ、その人を通して助けて下さる。救ってくださる。何より命がけで私たちを救いに来られた。この事をいつも覚えていよう。
9月6日未明におきた北海道大震災。北海道では未体験の規模。いやそれだけではなく、ライフラインの断絶・情報の寸断・全道の90%以上に及ぶブラックアウト。何もかも絶たれたような瞬間がこの時訪れた。情報が入らないから自分たちがどのような状態にあるのかさえ分からない。自分たちの弱さを改めて実感しつつ、自分たち一人では決して生きていけない、そのことを本当に私も被災しながら実感しました。何より神様なしには私たちが生きていけないことも。
この被災地に、神様は多くの助けを送ってくださった。目に見えるところではボランティアでしょうけど、祈り支え合う友であったり、家族であったり、必要物資であったり。ある方を通して本当にその時必要なみことばが礼拝DVDを通して届けられたり。本当に何もないはずのところに、神様は全ての必要を備え、励まし助けてくださった、本当に感謝です。
そんな時に、↑のみことばをふと思い出したんですよね。まさにこの箇所を開いた時、ああこれらの助けは全て神様からのもので、神様が養い続けてくださったんだ、と実感・確信させられたんですね。
↑の時、イスラエルの王、ダビデは本当に困難な状況にありました。当時の列強国であるペリシテと対峙していた時でした。その中で彼を支えた3人の勇士がいました。彼らは、ダビデが王位につく前に、前王にねたまれいのちを狙われ荒野を逃げてさまよっていたとき、彼のもとに駆けつけてくれた人たちでもありました。
彼らはいのちを顧みず、ダビデの助け手となり、味方が逃げようともいつもダビデのそばにいて離れず、守ってくれていた。特に印象的なのは、ダビデが心が枯れ果ててどうにもならず、故郷の水が飲みたい、と言った時、彼らは何と、見方が逃げ出すほど強いペリシテたちの陣営を突き抜け、危険を冒してでも、ダビデに必要な水を届けた。何という凄い3人衆だろう。勇士だろう。
実は↑の箇所は、ダビデの記録の本当に付録的な感じで残された箇所なんです。でも、ダビデは自分の生涯を振り返った時に、この3人の勇士だけは忘れられない、いや彼らが私の生涯を支えた、いや神様がそのような人をいつも私のそばに置き支え続けてくださった、だからこそ彼は一度ダビデの生涯の終わりまで書き終えた後で、彼ら3人のことを、いや神様がそのような3人を送り、彼らを通して助けて下さり支えてくださっていたことを残したかったのです。
何か私たちは神様って遠い存在に感じる時もある。今回の震災然り、こんな状況の中でどうしたらいいんだ?と。でも神様は私たちのそばに寄り添ってくださる。最初にも申し上げたように、明日の心配は無用とおっしゃられた約束の通り私たちの必要を備えて下さり送ってくださる、それだけではなく、私たちに必要な助け手だったり、祈り手であったり、祈りの中で、また御言葉の中で私たちを励まし慰めてくださったり。また、誰かともを送り彼らを通して励まされたり、その戦いをブレイクスルーさせてくださったり(これは聖書でもあちこちで見られますね)。
でも、神様はただ何かを送るプレゼントを贈るサンタのような存在ではない。神様は、私たちと本当に命ある関係を持つため、寄り添い、私たちの内に住まわれ、ご自身の愛を現されるべく、なんと、神の御子イエス様という最大の勇士を私たちの元に遣わしてくださったのです。↑のダビデの状況よりさらに過酷な中に。しかも王とか特別な人のところではなく、貧しい人、社会的に見捨てられている人、病の中にある人、いや何より罪のどん底にいる私たちの中に。信じられるだろうか。でもイエス様は何と言われようと迫害をされようと殺されそうになろうと、彼らの中に尋ねて行かれた。
何より、私たちの罪の贖いのため、罪の赦し、神様の和解という最大の水、救いを必要とするわたしたちのために、十字架に進まれた。私たちのためなら命を投げ出す事など惜しむことなく。そして私たちの罪の身代わりに十字架に架かられ死なれた。そしてよみがえられ、私たちに水・もとい永遠のいのちをもたらしてくださったのです。私たちがこの救いを信じ受け入れる時、私たちは罪の赦しをいただき、神様と和解させていただき、神様の子とされる。
神様はそこまでしてでもあなたをご自身の御側に引き寄せようとされたのです。ご自身の子・家族として受け入れるべく。私たちの内に神様が住まわれたとき、その生涯は、ダビデの3勇士の比ではない。神様があなたと共にいる。これ以上の喜びはないのではないか。私たちの勇士が、神様がどれだけの愛を注いでくださっているのか、私たちを忘れない神様を私たち自身が忘れてはいけない。御子イエス様の命を持ってまであなたを取り戻された神様が、どうしてあなたを見捨てようとされるだろう。3勇士どころではない、神様はあなたの今の問題と戦い、必ず勝利へ、神様の御心・ご計画の内へと導いてくださる。あなたに世には与える事の出来ない真のいのちをもたらしてくださる。今日どれだけ神様が愛されているのかを覚え、主にすがり、また信頼し歩もうではありませんか。