ー勇気ー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして20) | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして20

「万軍の主はこう仰せられる。『勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。その日以前は、人がかせいでも報酬がなく、家畜がかせいでも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安はなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。しかし、今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない。―万軍の主の御告げ―それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを継がせよう。ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。』」

ゼカリヤ書89-13

 

神様は私たちを無責任に放置なさる方ではない。神様は、私たちを救うために御子イエス様を十字架に架けるほどに私たちを愛された。私たちが滅びの内にいることを放置できなかったから。そこまでしてまで愛される神様があなたと共にいる、これほど力強い話はない。

 

9月6日未明の北海道大震災。本当にこれは道民に多くの傷跡を残した。もちろん物理的にはライフラインは回復し始めていますが、家族を失った人や家を失った人、この影響で仕事を失った人、今までの生活が失われた人、本当に様々。もうすぐ冬も近いのに仮設が間に合うか微妙なライン。挙げたらきりがない。私も家は無事でしたがこのライフライン断絶とブラックアウトと、この辺りを体験し、職場でその影響をもろに受け、本当に何とも言えない状態に陥っていた。ならなおさらのこと、本当に震源地近くのダメージは計り知れない。

 

そんな中で、私にとって本当に支えだったのは、やはり私を神様が支えてくださっている事、この場所を支配なさる方は、治めて下さる方は神様なのだ、ということでした。私が何か頑張って頑張って回復させていくのではない、これを回復させていくのは神様なんだ、その確信を↑の御言葉から神様は示してくださったのでした。ここまでこのシリーズを震災翌日からずっと書き続けていますが(御言葉の分かち合いは一年以上前からですけど)、いつも神様が御ことばから支え、私を強くしてくださっているのを日々確信させられます。

 

と、私の話はどうでもいいのですが、よく震災とかあると勇気を出して、頑張ってとか、色んなことばが踊りますが、これほどプレッシャーになることってないんですよね。でも一つ言える事は、神様は私たちを見捨てなどはしない、という事。だから私たちは勇気を失う必要などないのです。それは被災地だけではなく、現実の私たちの歩みの中にあっても、何より罪という最大の問題に対しても、神様は救いの御手を伸ばされたのですから。

 

話しを↑の出来事に戻しますが、↑の時、イスラエルの民はバビロン捕囚から帰って来た時でした。イスラエルの民はかつて神様に祝福され、神様が彼らの内にご自身の愛を、御心を注がれ、治められる本当に色んな意味で祝福された国でした。ところが、時が進むにつれ神様を捨て、神様から離れ、神様を侮り続けた。そしてついに彼らは来たイスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに捕囚されるのでした。

 

しかし神様の憐みによって、確かにかつて預言者たちに約束していたように捕囚から70年が経ち、彼らは約束通り神様の導きによって解放され、国に帰っていた。ところが、現実はどうか。国は荒れ果てている。他の国の民の邪魔もあって思うように復旧は進まない。何よりも仕事も作物も一からやり直し。もうどうしたらいいのか?という状態だった。

 

そんな彼らにゼカリヤという人を通して神様は↑のように語られた。勇気を出せ、これは別に何の保証もなく言っているのではない、「わたし=神様」が回復させるから、だから勇気を出せ、というのです。しかもそれは精神的な事だけではなく神様は具体的に「しかし、今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない。―万軍の主の御告げ―それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを継がせよう」とおっしゃられた。

 

神様は彼ら自身、丸ごとその目を向けられていた。何か精神的な支えになる、とかそんなレベルではない、彼らが今いるこの現状に対して、神様はそれらを無視するのではなく、神様が彼らの新しい歩みを共に築き直し、回復させてくださる、そう約束してくださったのです。

 

最初にも書きましたが、神様は私たちを無責任に放置なさる方ではない。神様は、私たちを救うために御子イエス様を十字架に架けるほどに私たちを愛された。私たちが滅びの内にいることを放置できなかったから。うして、御子イエス様のいのちによって私たち一人一人を丸ごと買い戻してくださったのです。そしてこの十字架によって結ばれた、回復された神様との親子関係において、このライフラインによって、私たちを神様の愛で造り変えて下さる、回復させていってくださるのです。本来神様が願っている私たちの姿、ご計画に向かって。

 

これはわたしたちが主に立ち返るその時から始まる。悔い改め神様の前に変えるその瞬間から始まる。あなたがイエス様を主として今いるその場に迎える時そこから始まる。神様が私たちの内に御心をなしてくださる。しかも罪人の私たちにまずその愛を示されるため御子イエス様いのちを身代りにできるほどの方が。これほど力強く、また励ましになる事はないのではないか。

 

死・裁きから永遠のいのちへと変えるために御子イエス様のいのちを惜しまず身代りに差し出されるほどに愛される神様が、あなたと共にいる。神様は私たちがそのような神様から離れ、命を失っていくことを我慢できない。それに何より私たちが苦しみの中にあることを放置される神様ではない。あの捕囚から帰った帰還民の具体的な問題にも答えられた神様ですから、あなたの重荷を無視される神様ではない。神様はあなたを丸ごと心配され、あなたを丸ごと救い、ご自身のもの・子とするために御子イエスさまさえ差し出された。

 

今日私たちはこの方に委ねよう。神様を信じる事はやせ我慢をするということではない、神様に委ねる勇気を持つこと。あなたは御子イエス様のいのちという代価を支払われるほどに愛されている。今日この神様の愛をしっかり握りしめ歩もうではありませんか。神様がなされる大いなることに期待して。