(9月6日未明の北海道大震災で被災をして19)
「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」
マルコによる福音書12章41-44節
神様は私たちの心を知っている。喜びも、悲しみも、痛みも、全部。神様は、私たちがその心を向けるのを、顔を神様に向けるのを、帰って来るのを待っておられる。今日も。
9月6日未明に起きた北海道大震災。ある人は家族を失い、ある人は家を失い、ある人は仕事を失った。一時的とはいえライフラインの断絶、ブラックアウトも起こった。もうTVで情報もあまり流れなくなっていますが、仮設住宅やこれからの生活など、被災生活は続いている人たちは続いている。心はもっとだろう。このやるせない思いをどこに持って行ったらいいのか?私もブラックアウト、ライフラインの断絶をこの震災で体験しながら、心の不穏を感じました。仕事においてもこのブラックアウトによって未体験の状況になりましたし。
でも、何はさておき神様がいる、神様が私にみことばを語り、励まし続けている、その喜びが本当に私にとってはいのち、何よりの助けとなりました。この私を神様は知ってくださっている、と。↑の箇所を示されながら思い出され、今も多くのみことばをとおして神様は私を励まし続けてくださっている。
と、私の話はどうでもいいのですが、↑のその聖書の出来事(今回は献金の話から少し離れて神様との関係・神様に献げる関係という視点で)。これは、あるやもめの話です。彼女はやもめ。でも今のような社会システムがしっかりしてなかったのか、↑を見ると、全財産は「1コドラント=78円」。それほどに本当に貧しく、明日をどう生きたらいいのかわからない状況でした。
彼女からしたら、そんな献金なんかしている場合ではない。その78円で少しでも何か食べる物を、とかそう私たちだったら考えたい。神様に頼って何になる?そんなことよりもこの78円でどう生きるか、いやこれからどう生きて行くか、そのことで思いはいっぱいになる。でも、彼女は神様に献金することを選んだ。
なぜ?ある人は愚かな事を、と思うかもしれない。でも彼女が捧げたのは金額以上のものだった。全財産を捧げる、それはもう神様に全部任せる、その決断があったからこそなのです。ああ、もちろん全財産を捧げれば神様は喜び、それ以外はだめ、というわけではないですよ?イエス様が喜ばれたのは、このいかんともしがたい状況の中で、神様を恨み呪うのではなく、それでも神様にその身を委ねた、そのことを喜ばれたのです。
神様は彼女の痛みを、悲しみを、今の生活の困窮状態も全部知っておられます。そしてそのそばにイエス様を神様は遣わされていた。なんと素晴らしいこと。知っておられ、その祈りは確かに神様の目に留まっていたのです。
残念ながらこの出来事の結果、やもめにどんな結果が待っていたか、それは書かれていません。ただ聖書に書き記されていないだけで、神様に自身を委ねた彼女の人生、彼女自身に神様はその御心を、愛を、刻み続けてくださった、私はそう確信します。私たちは彼女の結末を知らない。私たちの~なっただろう、という押し付け通りにはならなかったかもしれない。しかし、神様のその御手の中に置かれたのなら、それはそれ以上の喜びはない。なぜなら、彼女は神様のものとなったのなら、その保障、すべての保証は神様がなされているのだから。
正直な話、何かどうしようもない試練にあった時、いつどのようになる、という結論を私は書くことはできない。被災地でいつどのように復興する、そんな予知的な事は残念ながら書けません。でも、少なくともいえるのは、あなたの事を知っておられる神様は、あなたの内にご自身の愛を注ぎたい、ご自身の御心を、ご計画を注ぎたい、刻みたいのです。神様はあなたの声を聴いておられる。そしてあなたがその心を、顔を神様に向けるのを待っておられるのです。
どうして?だってあなたは神様の作品だから。だからあなたが苦しみ続けることを見過ごす事などできない。神様は私たちの内にご自身を現したいのです。だから、神様はこの現実の中に神の御子イエス様を遣わされた。彼女の現実の中に、ローマ帝国に支配され絶望の中にあるイスラエルの民の中に、何より罪のどん底で、もう滅び行くしかない絶望下の中に、神であられる御子イエス様が人と会ってこられ、住まわれたのです。そして神様の愛を惜しむことなく注がれた。
何より、私たちの罪を身代りに背負われ、私たちが本来刻まれなければならない罪人の烙印、十字架の傷を、御子イエス様が身代わりに烙印され、釘討たれ、死なれた。そうして私たちの罪人の烙印の代わりに、無罪、神様の子という烙印?印を代わりに刻まれ、神様ご自身のものとされたのです。もし私たちが悔い改めその向きを神様に向ける時。悔い改め立ち返る時、神様の元に変える時。あなたの人生は主の元なる。霊的なやもめから、神様の子へと変えられるのです。
こんな状況で神様など信じて何になる?と思うかもしれない。何も持っていないと思うかもしれない。でも神様を信じるなら、あなたは永遠のいのちを得る。神様にあってすべてを得るのです。神様の祝福、ここに全てがある。あなたを神様ご自身が御子イエス様のいのちをもって買い取ってくださり、保証しご自身のもの・子としてくださる。神様はあなたが今日神様の元にその重荷をおろしに来るのを待っておられる。今日、主の前に帰ろう。主はあなたの事をだれよりもご存知で今日も心配し、あなたにご自身の愛を刻みたいと今日も待っておられる。