(9月6日未明の北海道大震災で被災をして18)
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ」
詩篇46篇1-3節
神様に頼る、という事は精神論ではありません。我慢する、という事ではありません。むしろ神様は私たちが頼るのを待っておられる。良いんです、苦しいですと言っても。神様はあなたがその顔を向けるのを待っているから。
9月6日未明の北海道大震災。本当にこれは北海道にとっては未曽有の体験でした。まあブラックアウトについては日本では初でしたが。私も震度こそ差はあれど、ライフラインの断絶とブラックアウト、この3つの前に本当に疲れました。そして心を休ませる場所を求めました。まあ私のことはどうでもいいのですが、特に震源地に近い人たちのダメージは計り知れず、心身ともに避ける避難所が本当に必要とされました。いや、今でも必要としています。物理的にも仮設住宅、心の面においても休まり癒される何か。私の周りにも、我慢しているだけで本当は今も安らぎ、平安が必要なんだ、という人を多く見ています。
何かそんな状態を思う時、また私自身ライフラインとブラックアウトを体験した時、自分の心をどこに置くか、これが本当に問われました。そしてそれが本当に支えになり、また力となった。それは、神様ご自身が私たちの方を向いておられ、私たちを心配してくださっているということ、これほど力強い話はありませんでした。その間も↑のみことばが私の心に迫り、私を力づけてくださったのでした。
昨日も書きましたが、神様は人格を持った神様です。生きた関係の中に私たちを招き入れたいのです。その御顔を私たちの方に向けられ心配してくださっている、そして平安を与えたいと私たちの内にやぐらを、避け所を「神様が」造って、私たちを守り、助け、力づけ、また安らぎを与えて下さるのです。
そうなんです。神様が、私たちの内にやぐらを建て、住まわれるからこそ、そこに私たちが招かれ入るからこそ、私たちは力を得る、平安を、休息をえるのです。得る、そう神様が与えて下さるのです。私たちが自分の思いという道具を使ってどんなにやぐらを建てようとも、避け所を造ろうとも、そこには限界があるんです。
私たちはだって神様と共に歩む者として造られたのだから、神様に養われ生きる者だったのだから、神様から離れては生きることはできない。私たちは神様からでも離れて行ってしまった。神様などいなくても生きて行ける、と。でも神様は、私たちに全ての最高のものをもって祝福したい、とあなたに顔を向け続けているにもかかわらず私たちはあなた名などいらないと顔をそむけ続けていた。
そこで神様は私たちの内に幕屋をもうけ住まうために、御子イエス様を私たちの内に送られた。神であられるのに人となって来られ、その間に住まわれたのです。そして、私たちの避け所となられた。神様ご自身から来られ、私たちの内にご自身の愛を注がれ、具体的に助けられた。全ての重荷をわたしのところに降ろしなさい、と。休ませてあげるから、と。
でも神様は私たちの「一時的な」避難所としてこられたのではない、神様と私たちが和解させていただき、本来あるべき姿に回復するため、罪の奴隷として滅びの子としてではなく、本来あるべき姿・神様の子して回復させる、癒されるため、私たちの支払うべき罪の報酬・死を御子イエス様が身代わりに背負われ、身代わりに十字架に架かられ、身代わりに死なれた。そしてよみがえられたことによって、私たちと神様の和解の架け橋となってくださったのです。
私たちがこの十字架によって結ばれた神様との和解の関係の中において、私たちは本当の力を得る。苦難困難の中にあろうと被災地であろうと、迫害下、問題下であろうと。そこに神様の平安が、その守りがあなたを包むのです。このイエス様のいのちによって結ばれたこのやぐら、避け所の中にこそ私たちはいのちを得るのです。「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」、それは神様に決して勝らず、あなたを倒す事はできない。
私たちが建てたやぐらではなく、神様ご自身から発せられた御子イエス様の十字架によって、そのいのちによって建てられたやぐら、避け所はもはやいかなるものも、サタンも、何者も打ち砕くことはできない。だからこそ私たちは恐れる必要がないのです。私たちはこのイエス様の元に身を寄せよう。この方に信頼し、歩もう。神様があなたの内に、御子イエス様の十字架ゆえに建てられた新しいやぐら、このいのちの関係の中歩もうではありませんか。すでに十字架によってイエス様は世に勝利されたのですから。
