ー敵の中でさえ、苦難の中でも食事を備える神様ー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして) | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして14

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」 詩篇234-6

 

神様はその食卓をどこにでも広げることができる。それが敵地であろうと、苦難困難の中であろうと、被災地であろうと、どんなに何もないと思える場所にあっても神様はそこにいてくださる。なんと感謝な事だろう。

 

9月6日未明に北海道で起きた大震災。2週間が経過して、ある程度落ち着いているように見えますが、実際は物流も回復しているわけではないし、車内泊を余儀なくされている人たちもいる。何せ、これだけの規模のものには慣れていないから、どうしたらいいのかわからずに、心と体のバランスが見えない形でひずみができているところもある。北海道の人口に対して一千億の経済損失を負っている…いや、もうそんなレベルを超えて、住むところを失ったり家族を失った人たちもいる。規模云々を超えて被災した人には規模は関係ない。

 

私も震度のレベルの差はあれども被災し、ライフラインが経たれた時には本当に疲れ果て、肉的な目で見たら本当に疲れた。いや身体は正直ですからね。クリスチャンでも疲れるんですよ?

 

話しは戻して、そんな日々の中で神様が↑のみことばを思い出させてくださった。まあこの詩篇はどちらかというと前半の方が有名なのですが、神様は「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」と、もう一度私に教えて下さった。

 

普通に考えたら、敵の前で食事を整えて下さるなんて考えられない。わざわざどうしてそんな危険な中に来る人なんている?でも神様は、そうした敵地にあろうと、たとえ死の谷の陰を歩むような時であろうと、そこに食卓を広げて下さる。

 

でも、別にこれはただ食事を与えよう、とかそういうレベルの話ではないんです。食事を備える方が、そこにおられる、ということ。食事がある、ということではなく、食事を備える神様が、食事を通して養われる、その神様が、もう何にもない、どうしようもないような状況下にあろうが、どこにいのちがあるんだ、喜びが、救いがあるんだ?と人の目には見えるような状況下にあっても神様は私たちの内に来られ、その幕屋を広げ、私たちの内にご自身の食事・私たちを元気づけ養う何かを私たちに与え続けて下さるのです。

 

だって、「神様は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。神様は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。神様は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれ」る、そんな方なのですから。養い主、羊飼いとして、羊である私たちに対して責任を持たれているのです。私たちが迷子になろうと、希望を失い死の谷の中にあろうと、敵地の中にあろうと、苦難困難の中にあろうと、被災地の中であろうと、罪のどん底であろうと、神様はそこまで下ってきてくださりあなたを取り戻そうとされ、ご自身のもの・子とされ養おうとされたのです。

 

そう、神様が行くことのできない場所なんかない。あなたを滅びの穴から救い出すために、神様であられるのに人となって来られた。罪にまみれ、神を愛していると言いながら敬わず自分勝手に生きているような場所に。そしてそれこそ死の谷を歩んでいるような社会から見捨てられているような人のところや、不治の病や絶望の中にいる人たちのところを訪問されていった。

 

そして、最後はなんと死刑囚となって、私たちの罪の身代わりとなってその罪を背負い身代りに罰せられる死刑囚となって十字架にまで上って行かれた。そして死刑囚の横に行って、彼らになお愛を示された。目の前で罵る宗教家たちのためにも神様の前に「父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分たちで何をしているのかわからないのです」と懇願までされたのです。そして身代りに罰せられ、死なれ、陰府にまで下られた。私たちの身代わりに。そこまでしてでもあなたを救いたい、あなたの内にその幕屋を、食卓を広げ、ご自身の愛で満たし、新しく神様の子として生まれ変わらせる、造り変えて下さる、そのためなら、とこの愛の裾を広げられたのです。

 

私たちはこの主の裾で憩おう。私たちは神様をありかを知らず、救いを知らず彷徨っていますが、主ご自身があなたの内に来られたのです。あとは私たちがこの愛を、救いを受け取るだけ。罪を認め神様に立ち返るだけ。主はいつでもあなたのために食卓を用意し待っておられるから。今日、どこにあろうとも主を求めよう。主はあなたの内に食卓を、御国を広げられる。

 

(祈り)ああ主よ、今死の陰の谷を歩んでいる、神様にある希望を知らずに苦しんでいる人たちの内に、どうにもならない敵地というか戦いの中にある方々の内に、被災地にある方々の内に、どうぞ神様の憐みの食卓を広げ、あなたの愛で、いのちで満ち溢れさせてください。私たちはあなたをしたい求めます。