ー結局私たちを生かすのはー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして13) | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして13

「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」

申命記81-4

 

私たちの周りには私たちを助けてくれるものが色々ある。今回9月6日未明の大震災の中でも、多くの助けがあった。それは家族同士の協力であったり、地域の協力であったり。また祈り手であったり、励ましのことばであったり。ライフラインの寸断によって情報や物資が不足する中でも、なんとか今に至ってます。

 

ただ、実際にはまだ完全な物流の回復はなっていないですし、農業漁業畜産など、様々なダメージから、回復はまだ先かもしれません。何より、家族や家を失った方々にとってはいかんばかりか。彼らの内に神様の慰めが日々あるよう祈るばかりです。

 

話しは戻して、私も被災をしながら多くの祈り手に励まされました。でも、私の中で本当に大きかったのは神様のみことば。これは本当に大きかった。色んなものがなくなっても、届かなくても、神様のみことばだけは私の内から離れなかった。それは物理的な聖書だけではなくて、神様ご自身が御ことばを通して語りかけ続けてくださっていた。祈りの中にあっても。また、こんな物流が悪い状態の中にあっても、ある先生が毎週のように送ってくださっている礼拝DVDが途切れることなく届いた。神様のみことばは決して止む事はなかった。

 

そんな時に思い出したのが↑の箇所。かつてイスラエルの民はエジプトで奴隷としてずっと捕らえられていた。そんなある日、神様はモーセという人を賭してエジプトから彼らを救い出し、これを打ち砕き、かつてイスラエルの先祖たちに与えると誓われた地に導いてくださった。そしていよいよ到着直前に神様がモーセを通してイスラエルの民に↑のように語られたのでした。

 

彼らは荒れ地で40年間、時に水のない場所を通ったり、多くの闘いもあった。それこそ巨人と言われるような敵とも戦ってきた。でも神様は、何もない荒野にあっても養い続け、この40年、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれな」いように彼らを導き養い続けたのでした。

 

神様は、その口から出る一つ一つのことばによって私たちを生かしてくださる。それはこの40年の間止む事はなかった。時には自分の都合通りにならない神様などいらない、と自分の思う通に操れる神を造らせたこともあった。もう捨てられて、彼らを養うために毎朝彼らに降らせていたマナという食べ物も、なくなってもおかしくはなかった。そんな民など愛せるか、と何か適当なものを与える、とかそんなこともせず、神様は彼らを生かそうと毎日毎日養い続けてくださっていた。

 

神様の口から出る一つ一つというのは一つはことば。御言葉。私たちに語りかけ続けている、という事は私たちを見捨てず、私たちにいのちを得てほしい、それこそ↑にあるように私たちが生きるため、他の箇所でいうなら幸せになるために、その関係を持ち続けてくださっているという事。だってそうでしょう?見捨てるならもう語りませんよ。神様はその関係の中で、さらにただ励ますだけ、慰めるだけの神様ではなく、具体的に彼らの必要に答え、養ってくださっていた。この天地万物がその神様の一言によって出来たように、神様は、彼らの足のつま先から頭の毛のてっぺんまで丸ごと心配され、養ってくださったのです。心身ともに。神様ご自身の私たちへの愛の宣言ゆえに、その御言葉を、愛を実行に移されたのです。

 

私たちを本当に生かしてくださるのは、養ってくださるのは神様のほかにはいない。神様は、私たちが知らないだけで、日々養ってくださっているのです。40年間変わることのなかった愛は私たちの内にも注がれる。私たちが何か失われていようとしても、神様は私たちを養ってくださっている。何が失われようとも、神様の愛は決して尽きる事はない。

 

ただ残念ながら私たちは神様を捨てる。いや、神様など信じたって何にもならないだろう?と神様を疑い、他の神々を、いや自分の役に立つ操り人形的神を求める。そうして私たちはこの罪ゆえに神様と断絶されてしまって、本来私たちはこの尽きる事のない愛を受ける事などできなかった。

 

でも、神様は私たちへの愛を終わらせられなかった。そこで紙の御子たるイエス様を私たちの内に送り、荒野の中で彼らの現実の中に降って来られ、養われ、彼らの具体的な必要に答えながら、神様の与える、神様が養われる地に導かれたように、私たちの内に人となってお生まれになり、私たちの間に住まわれ、私たちの具体的な必要に答えてくださった。でもそれだけで終わらず、途切れる事のない神様の恵みを、霊的な祝福を注ぐべく、この断絶された関係に終止符を打つべく、神の御子たるイエス様を十字架に架け死なせ、身代わりに罰せられたことによって、神様と私たちの間の架け橋となってくださった。もう断絶される事がない、尽きる事のないこのいのちの関係に招き入れてくださったのです。

 

神様のあなたへの愛は、御子イエス様を十字架に架けて、身代わりに死なせるほどに大きな愛。もう表現がしようがない。この御子イエス様にあって、私たちに、罪の刑罰から釈放宣言され、神様の子として迎え入れて下さるのです。ただ私たちが自分の罪をイエス様の十字架の前に悔い改めイエス様を救い主として受け入れるだけで。

 

神様の愛は今日も変わらず注がれている。彼らがマナを自分たちで集めなければいけなかったように、このすでに用意されたイエス様の救いを私たちが後は受け取るだけなんです。それによって私たちは生きた者とされる。神様は私たちをどこにあっても、荒野であっても約束の地であっても、家庭でも職場でもどこにあっても神様の養いを送られご自身の御心をあなたの内に現されるのです。

 

私たちは神様の愛をどれだけ知っているだろうか。いや、これを書いている私自身まだまだ神様の愛なんてわかってない。神様の愛は人の秤では測れない。ただいえる事はイエス様のいのちを惜しまず与えるほどにあなたを愛し、本当のいのちの内に招き入れ、途切れることなく養い続けて下さるという事。私たちはこの恵みを信じ、この神様が与えて下さるすべてのものによって、その口から出るすべてのことば、ものによって生きよう。神様はあなたの一つ一つのことについて関心を持っておられ、あなたの内に、イエス様にあって御心をなしたいと今日も待っておられるから。人の持つパン以上に神様ご自身のいのちのパンがあなたの内に注がれるから。

 

(祈り)ああ主よ、あなたなしには私たちは生きられません。どうぞあなたにあるまことの恵みを知らない人たちのところに、また荒野のようにどうしようもない状況下にいる方、また何もない荒野に神様の養いがありマナが毎日のように届けられ彼らが生きたように、どうぞ神様今被災地にある方々、疲弊している方々、あなたの救いを必要とするすべての人たちの内に神様、あなたの愛が、御心が、具体的な必要もまた届きますように。そしてあなたの御名が崇められますように。