(9月6日未明の北海道大震災で被災をして12)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」
ヨハネによる福音書16章20-24節
私たちは悲しみの中にいる時がある。でも、それはいつか終わる時が来る。神様が喜びへと変えて下さる日が来る。この約束は何と素晴らしいことだろう。
9月6日未明に起きた北海道大震災。今も人数の問題ではなく、苦しみの中にいる人がいる。家族が失われた人、住む家を失った人、何より突然の出来事に心がついていかずに苦しんでいる人。いや、今年多くの災害があって北海道だけではなく多くの人たちが悲しみを背負っている。私も北海道で被災して、ライフラインが寸断し、物流が動かなかった時、一体この状況はいつ終わるのだろう?どこに向かっていくのだろう?そう思っていた。そんな時に↑の御言葉与えられるのでした。
↑の時、イエス様が十字架に架かる直前にイエス様が弟子たちに向けて告別メッセージを残されました。その一部が↑で、この直前イエス様はこのように弟子たちにおっしゃられていた。「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを親しく見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と。
これまでずっと一緒に歩んできたイエス様。ずっとずっと一緒だと思っていたイエス様が見えなくなる、救い主として彼らがどこまでイエス様を信じていたかわからない、でもそのようやく来られたく救い主が離れる、見えなくなる、その喪失感、絶望感はいかばかりか。しかも、イエス様が十字架に架かられ死なれる、というのですから。彼らの頭の中ではもう、終わりだ、そんな感じだったかもしれません。
しかしイエス様はおっしゃるのです。確かに見なくなりますが、もう一度イエス様を見るようになる、と。確かにイエス様は十字架に架かろうとされています。それゆえに弟子たちはイエス様がいなく悲しい時を迎えます。それだけではありません。クリスチャンゆえの迫害が、いや私たちもそうですが、土着宗教や地域との戦いがあります。そうして世の人たちはキリスト教を、イエス様を排除したつもりになって喜びに包まれる、でも、イエス様は私たちのこの苦難、悲しみが喜びに変えられるとおっしゃられたのです。
この十字架によって。何か修業を積んだらとか、特別な何かによるのではない、ただ十字架によってあなたの悲しみを喜びに変えるというのです。いや、当時のことばで見るなら、「そんな悲しみなど、突き抜けて喜びとなる」、というのです。悲しみ、苦難の状況を突き破る、そうイエス様は約束されるのです。何と力強い約束なのでしょう。
イエス様は彼らがこの直後裏切ることを知っている。こんなさびしそうにしているのに、すぐ直後には裏切って行く。でもイエス様はもう一度彼らがイエス様を見る日が来るんだ、あなたがたを見捨てるわけではない、それだったら、悲しみのどん底のままだ、そう訴えるでしょう。しかしイエス様は悲しみを突き抜け、突き破り喜びに変える、そう約束されたのです。
イエス様を置いて行った弟子たち。逃げ去って、見ることができない弟子たち。しかしイエス様の愛は十字架では終わりません、十字架であなたの身代わりになったからもうあなたと私は関係ない、とはならない。十字架による贖いを信じ受け入れた者の生涯を十字架を持ってイエス様は保証される、愛されるのです。
イエス様の十字架、いのちによって、私たちは贖われた、買い取られたのです。ですから私たちの生涯は神様のもの、神様のご加護の中にあるのです。ですから、イエス様が私たちを悲しみのままで、苦難の中に閉じ込めておくなんてそんなことはありえない、悲しみを突き抜けて喜びへと変えてくださるのです。
私たちはこの十字架によって、神の御子たるイエス様の十字架による贖い、イエス様のいのちという代価によって神様に買い戻された、そのイエス様の十字架によって↑のイエス様のおことばは保証されるのです。イエス様があなたの内に住まわれ、働かれるから、暗闇には終わりが来る、勝利の日が来る。悲しみが喜びに変えられる日が来るのです。あなたのために命さえ投げ出される方がご一緒に歩まれながら、その苦難の日にあっても。
イエス様の復活の後イエス様に出会った人たちは、慰め、励まし、力づけられていきました。彼らがどうなったか、心が燃やされ、喜び、新しい生涯をスタートしていきました。神様が、あなたの悲しみを、暗闇を、罪を、氏を、いのちに変えて下さる、神様の子とされ喜びに移されていくのです。
イエス様はあなたを孤児にはしない。みなさんは、あなたはこの方にどれだけ期待しているでしょうか。イエス様はあなたの悲しみを突き抜け、喜びへと導かれる。その喜びを何者もあなたから奪い去ることはできないのです。イエス様はあなたを愛しています。
私たちの罪の闇を、死を打ち破るため、私たちに光を灯されるため、天上にいるのではなく、その中にまで下って来られたイエス様を私たちは仰ぎ見よう。もっともっとイエス様を大胆に求めて行きましょう。イエス様はあなたを喜びで満ち溢れさせるために、あなたの死をいのちに、裁きの宣告を、釈放・自由!と変えるべく身代りにその罰を受けられてまで、あなたへの愛を全うされたイエス様を。
今日のあなたがどういう状況なのか、私は神様ではないのでわかりませんが、ただ一つ言えるのは、ご自分のいのちを惜しまずあなたの身代わりに十字架に架け、死なれるほどの愛を実行された方が、今あなたと共にいる。あなたをその方が保証してくださっている。いつか私たちの想像を超える喜びへと導いてくださる。だから私たちはただイエス様にすがり歩み続けようではありませんか。イエス様は置物の偽神ではない、あなたに愛を実行される今も生きておられる神様ゆえ。
(祈り)ああ主よ、どうぞ被災地に、この日本に、悲しみの中にある方々に、神様を知らずに希望を失っている人たちの上に、罪の中にある人たちの上に、神様、あなたの光を照らしてください。私たちのこの古い私たちを、あなたにある新しい者へと作り変えてください。あなたの十字架によってどうぞ私たちを洗い聖め、あなたの御心がなされる事、あなたにある喜びが満ち溢れる事を信じ待ち望みます。ただあなただけをしたい求めます。ただあなたの御心が、ご栄光が現されますように。