(9月6日未明の北海道大震災で被災をして10)
「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、『私たちは何を飲んだらよいのですか』と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。そして、仰せられた。『もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。』こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。」
出エジプト記15章22-27節
人は本当にどん底に陥る時、救いを求める。それはそうです、いつまでもそんなところにいたくないし、そこに光を灯してほしい、脱出させてほしい、そう願う。早くこの苦難が過ぎ去ることを、と。じゃあ私たちは誰に救いを求めたらいいのだろう。
今回9/6未明に起きた北海道大震災の被災者の多くが今も苦しんでいます。目に見える部分では回復は始まって来ていますが、目に見えない心の部分で実は多くの人がつかれ、傷ついているのを私の周りでも見ています。話を聞くと、何とも言えない苦しさがあって、どうにもならないんだ、と。地震から10日が経った今なお。もちろん家を失った人、家族を失った人の悲しみはいかんばかりか。私も震度4で被災しましたが、ライフラインの寸断によって、かつてない状態に(東日本大震災の時も震度5強を体験しましたが、それでもライフラインは生きていましたし、何だかんだで物資は足りていましたから)疲れていたようです。
そんな時、↑の箇所が示されたのでした。わたし(これを書いている私ではなく、神様)は癒す神様だ、と。たった一本の木からさえいのちをもたらす神様なんだ、と。何もない状態、とても飲めないような水さえ飲み水に変えて下さる神様はどれだけすごいんだろうか、と。
↑の出来事があった時は、イスラエルの民はエジプトの長年の奴隷生活から解放され、彼らを捕らえていたエジプトを打ち砕き、紅海を神様がモーセを通して割って導き出された直後の話。そこは地図のない、荒野。現在のように道路も整備されてなければコンビニもないので、何か困ったことがあればどこかお店に行けばいい、とかそんな話ではなかった。
彼らは飲み水を探していましたがどこにも見つからず、やっと見つけたマラでは、塩気が強かったのかわかりませんが、とても苦くて飲む事などできる物ではなかったのでした。彼らのライフラインは、彼らは脱出した民ですから今のところ目に見える物ではありませんでした。
私たちは絶望下に立つと、何もない、今こんな状況の中で何があるんだ?と思う。ライフライン、これまで頼りにしてきた物、頼りにしているもの、これらが一体何の役に立つ?水があっても飲めなければ意味がない(蒸留水にすればいい、とかそういう意味合いで言っているのではなく)。
でも、私たちは忘れてはいけない。世のものがどれだけ過ぎ去ろうと、役に立たなくなろうとも、神様は残っている、というよりも最初から存在し今も存在し、これからも存在し続ける神様なんですけど、私たちが忘れたり気づかないだけで。↑の出来事の中で神様を「主」と表現されていますが、主とはそういう存在なのです。昔いまし、今いまし、これからもい続ける神様。
でも、神様など信じたって何になる?今必要なのは神様でも信仰でもなんでもない、と思う人もいるでしょう。↑の出来事なら、苦くて飲めない水、モーセが持ち出した一本の木。そんなものを使ったって何になる?と思う。でもね、その木が大事なんじゃない、水が大事なのではない、神様がいてくださっている、これこそが重要なのです。
神様は、神様が、彼らを救い出された、だから彼らの保証人なんです。その神様がどうしてそんな見捨てられますか。神様は、私たち自身の、私たちすべての保証人なんです。明日の心配はしなくて大丈夫だよ、空の鳥よりも、野に咲く花よりも優れているあなたがたをどうして見捨てるはずがあるか、とおっしゃられましたし。
そもそも神様はこの天地万物を無から造りだされたんですよ?あなたは偶然生まれてきたのではなく、神様に愛され、神様のその御手によって造られ今日まで育てられて守られてきたんですよ?その神様が治めるわけですから、どうして神様がこの飲めもしない苦い水を甘く飲める水に変えられないはずがあるでしょう?
神様を信じたって何になる?違う。神様という存在は誰でも信じる。でも他の偶像のように置物のように置いているだけでは何の意味もない。あなたの主として、神様としてその王座に座っていただくとき、はじめてそこは造り変えられていく、神様の御心が現れ、これまでの苦い水は飲める甘い水に変えられる。
こんな生一本で、こんな神様が何ができるんだ?神様は癒すことができます。誰も帰る事の出来ない苦い水を、たかだか木一本で私たちを潤す命の水に変えることができる、あなたの状況をいのちのある状況にあふれかえらせてくださるのです。
究極的に、神様は私たちの存在保障をするべく、私たちが罪ゆえに滅びる事がないよう、一本の木ならぬ、1つの十字架によって、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に欠け、身代わりに罰せられ、死なせることによって私たちの罪の代価を身代りに支払ってくださった。十字架?それが何の意味になるの?と思うかもしれない。でも十字架を単なるシンボルとしてではなく、あなたの罪のための十字架と知る時、へりくだる時、あなたの命は、あなたという人は新しく生きた者とされるのです。
あなたの魂までも心配され、あなたのために御子イエス様のいのちを持ってまで救い出される神様。今のあなたの苦くてどうしようもない状態を、主はたかだか木一本から出さえ変えてくださることができる。何を通して神様はあなたの内に光を灯してくださるかはわからない。でも、あなたの魂にさえ心配し保障し救い出そうとされた神様があなたを今日も心配してくださっている。この素晴らしい事実を忘れないでいたい。この神様以外にあなたを造り変える事はできない。神様のロボットとしてではなく、神様の子へと。
もう神様を偶像のように置物にして放置するのをやめ、あなたの神様として、主としてお迎えしよう。その時、神様の御心があなたの内に、その苦難の中に現され、造り変えられていくから。十字架によって保障された神様とのすばらしい関係の中、今日も歩み続けよう。
(祈り)ああ主よ、どうぞ被災された方々、北海道だけにとどまらず日本各地、世界各地で今苦難の中にある方のうちに、また最も悲しい罪の闇の中にいる人たちの内にどうぞあなたの光がともりますように。彼らの今の苦難の水が、あなたにあって命の水となって行き、ああ神様の喜びが彼らの内に満ち溢れますように。