ー神様にお任せしていいんだー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして5) | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

96日未明の北海道大震災で被災をして5

「それから彼は私に言った。『神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。』彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。彼は私に言った。『恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。』」

ダニエル書1011-14

 

9/6未明に起きた北海道大震災(正式名は違うかもしれませんが、北海道民の多くが苦しんでいるのであえてそう書きます)。地震が起きてからもう数ぐ一週間が経とうとしています。どうしても停電の方ばかりに目が行って、問題はそれだけではなく、地盤の沈下、あるところでは2m家が地面から沈んだ、というところもある。物流もそうで、たとえば先週木曜日に発売された雑誌が何と今日ようやく並んだくらい遅れている。

 

でも、物以上に人の心が疲れている。失ってしまった大きさに、ないし気を張っているけど心にどこか負荷がかかり、身体に悲鳴が上がり始めている。私も知らないうちに数字には現れないひずみが出始めている。いや、日本中今色んな災害で悲鳴を上げている。余震もまだ続いていますし。何かこう、挙げても挙げてもきりがないほどたぶん多くの課題がある。いつになったら元に戻るんだろう?と。今神様は何をされているんだろう?そう思いたくなる日だって。

 

でもイエス様はこう教えて下さった。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」。イエス様が一緒にあなたの重荷を、くびきを背負っているんだよ?って。イエス様「が」一緒だということを忘れないで?って。

 

そんな言葉を思い出したとき、↑の箇所を通して神様はさらに励ましを与えて下さった。神様に任せていいんだよって。↑の出来事は、イスラエルがバビロン捕囚にあい、ある意味で最悪の災難にあっている時の出来事。捕囚後70年してペルシャ帝国によってイスラエルは解放されるのですが、帰らなかった民は苦難にあいますし、全滅の危機にもあったり大変な状態だった。↑の時、何があってペルシャの君が3週間にわたって立ちはだかったのか、それは正直な話定かではない。

 

そんな中で、神様はダニエルという神様を愛し、捕囚地にあってもその捕囚先の憎むべき敵にさえ恨まずに仕え続けた彼を通して↑のように語られたのです。彼の祈りは、祈ったその時もうすでに神様の元に届き、神様はすでにその祈りの答えをもってミカエルを遣わした。そしてその問題の前に彼が立ちはだかってくださっているのだから、あなたは今わたしの言葉を聴きなさい、と。あなたの心をわたしに向けなさい、と。わたしには大いなる計画があるのだから、と。

 

私はもうこの事実に感動せざるを得ません。神様は祈ったその瞬間聞いておられ、答えを送られている事、私たちに立ちはだかる問題の前に神様ご自身の御心が立ちはだかってくださっている、ということ。神様は、ただ精神的支柱となるためにそばにいるだけではない。主ご自身が私たちのために戦ってくださるのです。すぐそばに来て。

 

私は、私たちは、あなたは一人ではない。イエス様は私たちのくびきを負うために来られた。ただ一緒、だけではなく一緒に戦われる。一緒にその問題を、重荷を背負ってくださっている。だから私たちは一緒にいるイエス様の声に聴くのです。主が一緒にくびきを負って導いてくださるんです。何という素晴らしい話でしょう。

 

↑の話はダニエルという人が特別だからじゃない、神様はあなたをも愛しておられる。あなたも愛されている人なんです、神様に。捕囚地だろうが、被災地だろうが、遣わされた場所、あなたが置かれた場所に神様は共にいてくださるのです。私たちのいる場所に置かれているのは神様なのだから、私たちはその問題や何やらに注目するのではなく、神様のおことばに、神様ご自身に注目すべきではないでしょうか。

 

神様の御心があなたの目の前に立ちはだかるものの前に神様が置かれる。だから、私たちはそれらは神様に委ねよう、そしてこの神様に注視しよう。神様が何をなさろうとしているのか、そこに傾聴し、信頼し委ねようではありませんか。

 

神様は大地が揺れ火が燃えようとも、心が疲れ切っていようと、その所にまで降りて来られる。神様は、この時は天使ミカエルでしたが、神の御子イエス様を私たちの、このどん底に沈んでしまった私たちの、罪の中に沈む私たちのところにまで降って来られた。私たちを引き上げるために。神様は、私たちの本当の必要な物流、いのちを私たちに溢れさせるために、神の御子イエス様を送ってくださったのです。くびきをともに負うべく、神であられるのにそのありようを捨ててまで来られたのです。私たちに本当に必要な罪の赦しと神様との和解をなすために、私たちの罪の代価を身代りに支払われた。御子イエス様のいのちにより。

 

私たちがイエス様を自分の罪の身代わりに死なれ、またよみがえられた救い主として信じ受け入れる時、私たちはこの悲しみの地から救い出され、引き上げられる。確かに地上にあっては多くの辛さ、悲しみはある、でも私たちはイエス様の十字架による和解によって神様とのライフラインが繋がり、主が私たちと共に住まわれ、ダニエルの目の前の問題の前に立ちはだかってくださったように、主が御心をなされることによって、私たちの目の前に災いも、問題も、打ち砕かれる。そこにいのちの光を溢れさせてくださるのです。

 

イエス様は来て終わりではなかった、死なれて終わりではなかった。復活されて、よみがえられた。和解をなして、世の終わりまで私たちと共におられ、なお、新しい助け主なる聖霊様をも遣わしてくださっている。あなたはもう1人じゃない、主が共におられる

 

今日、私たちはこの事を覚えましょう。神様の御心はイエス様の十字架にあって、あなたの内に、また被災地の上に、あなたの置かれている場所に現してくださる。もう神様にお任せしていいんです。私たちの神様は、御子イエス様のいのちさえあなたのために惜しまず与える神様です。そこまで愛されてる神様なら委ねていいじゃないですか。神様が最善をなしてくださることを信じて。今日、神様から伸ばされているその御手を取り、いのちをいただこう。主は今日も待っておられるから。

 

(祈り)ああ主よ、どうぞあなたがこの被災地に、今疲弊している日本に、この神様を知らず希望を失っている民の内に神様が共にあってあなたの御心をなしてください。私たちはあなたの愛に信頼します。重荷を全て委ね、ああ主よあなたの御声に耳を傾け、あなたにある希望を得ることができますように。あなたの慰めが、勝利が、光が、この地に輝きますように。