「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。』御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った。」
黙示録19章6-9節
私たちは最後、キリストイエス様の花嫁とされ迎えられる。神の御子がその花嫁とするわたしたちのために命さえ惜しまず投げ出された、何という愛だろう。このイエス様の花嫁とされている恵みを私たちは忘れてはいけない。
さて、↑のことばは、イエス様の十字架と復活、そして昇天されてより後数十年が経ち、多くの教会の誕生、キリスト教徒の誕生と同時に迫害の時代も迎えていた。そんな苦難の中にある12弟子の一人ヨハネという人に、復活のイエス様がある時、この先に起こることを語られるのでした。それはその当時の教会への励ましであり、また様々起る苦難困難とその後に最後にある勝利、また審判、裁き、キリストの再臨などなど様々な事が語られました。その中の一部が↑のことば。
それは、私たちが最後、イエス様の花嫁として迎えられる、という約束です。これはなんともすばらしい約束。神の御子と永遠に住まう。しかもこの世の罪も涙も一切が打ち砕かれなくなり、神様の愛が、栄光が満ち溢れるその御国において。何と素晴らしい話。私たちは未来が分からないから、死んだあとのことが分からないから不安。しかし、イエス様はその死んだ後の話もきちんと語ってくださった。
いや、それだけではない。この世を支配する闇も、サタンもすべて撃ち砕かれ、最後はイエス様の支配するその王国が、御国が待っているというのです。何と幸いな話。
そもそも私たちは神様の作品、最高傑作として造られました。そういう意味では私たちは神様の子。そして私たちは御国の相続人となるはずだった。
ところが、私たちは自分の思う通にならない神などいらない、と神様を捨てて別な神を求め、また神に祭り上げ、こともあろうにその自分の造り上げた神によって縛られる(それは何かの宗教だけではなく、思想だったり、カリスマ性のありそうな人だったり色々あると思う)。神様から離れ、罪に汚れ、神様に見捨てられてもおかしくない存在だった。御国の相続人?とんでもない。見捨てられ、最後に松は永遠の裁き、そんな惨めな私たちだった。
もちろん神様は私たちが大切な存在だから、愛する存在だから見捨てられずその御手を伸ばし続けていた。でも私たちは何か問題が解決したら、もういいや、とまた捨てる。神を神とも思わず自分の操り人形のようにしていた。もうどこに私たちの居場所など神様のところにあるか?
黙示録では神様に逆らい続ける者や、サタンの裁き、滅びの姿が描かれているのですが、しかし私たちをその道にそのまま進ませたくない、だから予めヨハネを通しても語られたし、何より、私たちに救いの道をあらかじめ備えて下さったのです。
そう、神の御子たるイエス様が、やがて私たちを花嫁として迎えるために、私たちの支払わなければならない花嫁料をイエス様の十字架の血潮によって払われたのです。私たちは本来神様から捨てられ、裁かれなければならない身、しかし、そのイエス様の十字架の血潮によって私たちが神様の元に帰れるよう、その道備えをしてくださったのです。私はあなたを愛するが故、私のいのちをもってあなたを迎え入れよう、と。あなたは悔い改めて、帰りますか?いのちをえませんか?とその御手をまず、愛するあなたを、花嫁のために命をまず差し出された。何と凄まじき愛。
これを受け入れるかどうかは、最後は私たちの責任。それはそうですよね、結婚は相互の合意、なら私たちが受け入れなければ何の意味も効力もない。
そこまでされたイエス様は復活されて後、じゃあ花嫁を見捨てるか?いやそんなことはない。だったらその迫害期の中で、死んだら花嫁として迎えるから、それまでは我慢してね~とは言わなかった。予め語りながら最後に勝利へと向かわせてくださること、だから最後まで従い信頼し通すことを語られた。そう、私たちはもうキリストの花嫁とされた今、その式に向かって、最後の勝利の時に向かって主が共に歩まれ、導いてくださるのです。この花嫁としての最高の衣を、花嫁衣装を用意され、今も私たちの住まいを備えて主はあなたを待っておられる。
ご自身のいのちを持ってまであなたのために花嫁料をすでに治めて下さっているイエス様をどうして疑っていられましょう。そこまでしてまでもあなたを花嫁として迎え入れる準備を今されている。どうしてそのあなたの事を今なお見放すはずがあるだろうか?
私たちはこの喜びをもう忘れてはいけない。あなたというアイデンティティが何者なのか?イエス様の血潮・いのちそのものを流してでも、あなたを救おうとされるほどに愛されているということを。今日、私たちは主の元に帰り、この主の御元に寄り添い、この婚約期間、キリストの花嫁として迎え入れられるその日まで、主と共に歩もうではありませんか。もうあなたは主のものとされている。