「キリスト・イエスにあって私の同労者である…主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」
ローマ人への手紙16章3,13節
私たちは先のことなど分からない。でも、もし私たちがイエス様と共に歩むなら、あなたの内に神様の愛が、御心がなされる。あなたのために御子イエス様を十字架に架けられたほどの愛が、それほどまでして取り戻されたその愛による御心が。
さて、↑のことばは、パウロという伝道者がローマの教会にあてた手紙の一番最後の方に載っている、教会のメンバーへのあいさつのことば。まあ、私たちも手紙を書く時って、読み手の他に、誰々によろしくね、とか書きますが分かりやすく言うならその類のものです。
その中でパウロという人は多くの人を覚えて、彼らの顔を思い浮かべながら、祝福を祈りつつ彼らの名前を列挙して行ったのでしょう。同労者一人一人を。同じイエス様を信じまた仕える一人一人を。
さて、その中に実は面白い人物が入っています。と言っても、以前にも実はそのことは取り上げたことがあるのですが(6/24の投稿)、ルポス。彼はローマ教会の中心を担っていた人なのですが、彼の父親はクレネ人シモンという男。聖書マニアの人ならピンとくるかもしれませんが、実は彼はイエス様が十字架に向かう途中、イエス様の十字架を身代りに背負わされた人でした。
彼はどうも北アフリカの港町出身で、何か商売か何かで来ていたのか。彼は見ず知らずのイエスという男の十字架を、死刑囚の十字架を身代りに背負うことになった人でした。
彼はこの時何を思ったのでしょうね。なぜこんな見ず知らずの男の十字架を、死刑囚の十字架を身代りに背負わなければならないんだ?冗談じゃない、最悪の体験だった、そう思ったのでしょうか?いえそんなことはない。もしそうなら、どうして彼の息子がそんな父親の姿を見てイエス様を救い主として信じるだろうか?身代りに背負った父親を誇ったとしても。イエスを助けてやったんだぞ、となるでしょう。もしくはそんな死刑囚など救い主のはずがない、そう思うでしょう。たぶん、私が当時のクレネ人シモンだったら、果たしてどう思ったか。
しかし、クレネ人シモンという男は、イエス様の十字架を背負って体験して、初めて知ったのです。今イエス様の十字架を身代りに背負わされている、でも、本来私が背負わなければならない十字架をイエス様が背負ってくださっていた、そして今、本来私が神様から罰せられて十字架上で死ななければならない、この罪を今神の御子イエス様が身代わりに背負ってくださっている。そして罰せられ、死なれた。その姿を、その意味を、自分が十字架を背負って初めて知ったのです。父なる神様に見捨てられるべきだったのは私であった、にもかかわらず、私のために赦しを懇願してくださったその愛を。
彼は十字架を傍観者としては見なかった。自分で背負ったこの十字架の意味を彼が知った時、十字架の前に遜り、罪の赦しを乞うしかなかった。いかに自分が罪深く神様から離れた者であったか。この神様なしでどうして生きることなどできるだろうか、と。御子イエスさまさえ惜しまず十字架上で死なせるほどに愛される神様が今、自分に十字架上で問いかけられた。あなたはどうするか?と。
その時彼は悔い改めて神様に帰った。そして、彼はこの罪赦された者として、十字架の愛を、喜びを、十字架によって買い戻された生涯を思い、イエス様を主としてお迎えした。彼は「こんな惨めな死刑囚イエス」ではなく、「『私の罪の身代わりとなって死んでくださった』救い主イエス」様と、その十字架を背負って初めて知った。どれだけの愛が自分に注がれているか。
イエスを信じたって何になる?イエスに従ったところで何になるんだ?しかし、彼は十字架を背負って、イエス様の十字架を知った今、自分の目で見るものではなく、イエス様のその惜しみない愛を罪人であるわたしに注がれたという喜びの目で見るとき、そんなものはどうでもいよくなった。もはや自分が生きるのではなく、自分の内にイエス様が生きて働き、ご自身の愛を、御心を現してくださる、ならば私はこれに従おう。この十字架の道を行こう、そう決断したのです。自分の十字架を背負ってイエス様についていくことを。
その彼を通して働く神様を知ってか、彼の伝道によってか、息子ルポスはイエスキリストを信じ、救い主として受け入れた。マルコによる福音書に「クレネ人シモン」だけではなく、「アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人」とわざわざその名前を残したくなるほどに彼の人生は大きく神様に用いられた、いや彼の内に神様が豊かに働き、大いにその実を結んでいった、ということができるでしょう。
パウロが彼を覚えていたように、マルコ・というか彼に口述筆記をさせたペテロにさえ覚えられていた彼は、それ以上に神様に覚えられ、箸にも棒にもかかあ内容な存在であった彼のためにもイエス様は出会ってくださり十字架に身代りにかかってくださった。なぜ?彼が罪の奴隷、背負うべき罪の十字架を下ろしてイエス様を救い主として信じ受け入れ、そのキリストに従う道を歩む中で本来の神様の御心の彼への姿に造り変えるために、神様の子として受け入れて下さるために。
十字架は何かの象徴でも過去の出来事でもない、これはあなたのため、あなたのために神様が御子イエス様に背負わせたもの。あなたが本来負わなければならなかった十字架をイエス様が身代わりに背負われ、罰せられた。あの苦しみの前に、今日あなたは何を思うだろう?この十字架を通してしか見えない神様の愛、恵みをもう一度今日深く思おう。この十字架なしに私たちは神様の愛など分からないし、いのちはない。このイエス様の道に従い歩む中でなければ私たちは本当の愛を知ることはできない。
私たちは先のことなど分からない。でも、もし私たちがイエス様と共に歩むなら、あなたの内に神様の愛が、御心がなされる。あなたのために御子イエス様を十字架に架けられたほどの愛が、それほどまでして取り戻されたその愛による御心が。今日、主の前に帰ろう。あなたを友と呼ばれるイエス様があなたの同労者として、同行者として天の御国にまでなあなたを導いてくださるから。