「ヨシュアは民に言った。『あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。』ヨシュアは祭司たちに命じて言った。『契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。』そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。主はヨシュアに仰せられた。『きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』ヨシュアはイスラエル人に言った。『ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。』ヨシュアは言った。『生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。』」
ヨシュア記3章5-13節
神様を信じるということは、やせ我慢をすることではない。どこか世の宗教を見るとそんな感じがしないでもないですが、そうではない。神様が共にいるから、神様が前を進まれる。だからこそ私たちは神様を信じられる。ただこの方に信頼し「従う」だけでいい。この事を忘れてはいけない。
さて、↑の出来とはかつてイスラエルの民がエジプトで奴隷として捕らえられていたとき、神様の憐みによってそこからイスラエルの民を救い出し、かつて彼らの先祖に約束されていた地にいよいよ到着するところ。そして先の偵察によってこれから攻め入ろうとしている場所には巨大な城壁があろうとも、中で助けてくれる見方も見つけた。中の民も恐れている事も知った。
しかし今、一つの問題が。それは目の前に大きな川が。この時期は満水で、おおよそ両岸の幅が30m。深さ3m程度で、流れも速い。若者だけだったら頑張れば渡れないこともないでしょうが、子どもからお年寄りまでいる。しかも、2-3百万人。今、イスラエルが迫っている事を知った敵は川で渡るのに苦労していれば狙い撃ちにしてくるかもしれない、そんな状況にありました。
そこで彼らはどうしたか?それは神様の御心を待ったのでした。不信仰?違う。私たちは何でも信仰信仰で何でもできるように勘違いしますが、それは神様が私たちの内に働かれるから、その時あり得ないと思うような事が起こるのです。そこを勘違いして、ある国のクリスチャンが、信仰さえあれば水の上を歩くことができると言って、数人で手を繋いで渡ろうとしておぼれ死んだ、ということがあったくらい。
と、話はそれましたが、彼らは神様が共におられる、この事実により頼んだのです。私をここに連れてきたのは神様だ、ならば神様がその道を開いてくださる、そう信じたのです。その時神様は彼らに、↑のように人の目には信じられないありえない方法を指示したのです。それは、契約の箱を先頭にして祭司がこれを担ぎ進むように、と。祭司は戦闘をするわけではないですし、敵に狙われたら最悪です。本来ありえない話です。しかし神様はそのようにおっしゃるのでした。でも、不思議な事に彼らがその通りに実行すると、その川はせき止められ、彼らは無事に対岸までわたるのでした。
一体何が?それは、契約の箱にこそありました。こんなのがあって何になる?と思うでしょう?でもこの契約の箱はとても大事なものだったのです。この契約の箱について説明し始めると、ものすごく長くなるので、それについては別の機会に。この契約の箱は、神様が作るようにと命じられたもので、それは神様がご臨在してくださるという約束のもの。そしてその中には十戒の板、マナの壺、芽を出した杖が入っていました。まさに彼らが今目の前に見ているのは、これまで神様が約束を破ること無く導いてきてくださった御言葉であり、養ってくださってきたマナ、そして全てに打ち勝ってきた、死をいのちに変える神様が共におられる、その神様が、共におられたのです。
神様はこれを見なさい、とおっしゃったのです。誰が彼らの、私たちの道を整えて下さるのか、誰があなたの前に進み、導かれるのか、誰が死をいのちに変えるのか。このわたし(書いている私ではなく)・神様が共にいるんだ。私が切り開く、死をいのちに帰る、だからわたしのところに来なさい、と招かれたのです。私たちが担ぐんじゃない。神様が共に進まれるから、神様がその道を切り開かれるから、私たちはただそのおことばに、神様ご自身に信頼するのです。
神様は私たちが担ぐ、という「宗教行為」を求めているのではない。神様が共におられる、神様がその道を開かれるから、信頼して「ついていく」、この事を神様は何よりも願っている。神様が約束の地、神様ご自身の愛が、御心が流れる地へと導かれ「ている」、そのことに信頼することを。
私たちが忘れては行けなのは、神様は、私たちを愛しておられる。神様ご自身があなたを造られたから。しかし、私たちは残念ながら神様が共にいる喜びを忘れ、神様があなたを導いておられる事を忘れ、神様を捨ててしまった。神様の元から家出をし、離れて行ってしまった。身勝手に神様を自分の欲望を満たす操り人形のように考え、そのように歩んで。神様から見たら本来捨てられてもおかしくはない。でも、神様はイスラエルの民を見捨てられずにエジプトから救い出し、荒野で逆らい続けてもなお見捨てられずに今もこうして導いておられるように、私たちを見捨てられないのです。
私たちが古い罪の奴隷の中に閉じ込められていたその叫びを神様は聞き逃さず救い出すために、御子イエス様を遣わされた。そして私たちの罪の代価をイエス様のいのちによって身代わりとなって十字架で死なれたことで支払は完了となった。私たちは神様の元に帰る事が赦されたのです。ただ、私たち自身が罪を認め、イエス様を救い主として信じ受け入れる時、私たちはこの永遠の赦し、罪の赦しを得、神様の民・子として受け入れられるのです。
私たちは宗教行為をするのではない、このイエス様の十字架によって赦された、この恵みに生きるのです。神様がイエス様のいのちを持ってまで買い戻してくださり、新しいいのちの道へとあなたを買い戻され、導き出された。その神様が、今あなたを導いておられる。あなたと共に死して後天の御国に行くまで共に進まれる、あなたの前を進まれるのです。
私たちはこのイエス様の愛から決して目を話してはいけない。あなたの前を行く契約の箱、あなたのためにいのちさえ惜しまず与えることができる方、あなたを死から命へと代えられたかた、帰ることができる偉大なる神様が共におられる。この事を忘れてはいけない。イエス様が道となられたのだ。ならば私たちの行く道を主に委ね、信頼しよう。
イエスさまさえ惜しまず与えられた神様がどうしてあなたを見捨てることができるだろうか。それならとっくに捨てている、それでもなお語りかけ、導かれるこの神様があなたの道を整え導かれ、私たちの創造を遙かに超える何かをなされながら、私たちの想像をはるかに超える恵みの中に導かれる事を信じ、今日も主の御跡をついていこうではありませんか。
ヨシュアはこのとき自分を聖めるよう、古い神様から離れていた自分を洗い聖めていただくことを勧めたように、今日、古い自分を十字架によってきよめていただき、新しい神様の恵みの中へ一歩踏み出させていただこうではありませんか。