「七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。『ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。』…そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。『あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。』斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。」
ヨシュア記6章15-25節
神様は、あなたのすぐそばにおられる。絶望の中にあろうと主は共に進まれ、あなたを囲う城壁さえ打ち壊される。主の救いを待ち望もう。
さて、かつてイスラエルの民はエジプトに奴隷として囚われ、苦しみに苦しみぬき、完全な暗闇の中にいました。しかし神様の憐みによって救い出され、その捕らえていたエジプトを打ち砕き、かつて彼らの先祖に与えると誓われていた地に神様が導き出され、ついにその地に到着し、その戦いが↑の話。そして同時にこのエリコの町の中で、神殿娼婦として散々利用されていて苦しみ続け救いを求めていたラハブという遊女の話。
実に今イスラエルの民は神様の約束の地を得る直前に来ていた。ところがそこは強固な城壁(厚さ6mの城壁)と、かつて偵察に行った人たちは巨人がいて、とても太刀打ちできない、と打ち震えた、ということもあった(一方で、神様がいるから絶対大丈夫、と言った人もいたけど)。そんな状況の中、神様の遣い・というか受肉前のイエス様(ようするにいわゆるクリスマス前のイエス様)が来られ、彼らとともに戦うことを誓われた。
そして「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない」と、とても不思議な方法を示されたのです。客観的に見て、一体そんな方法で何になる?と思う。でも、これには非常に大いなる意味があったのでした。
少し話は戻って、この戦いの直前に偵察に来たイスラエルの二人を実はラハブという遊女がかくまい助けた、ということがありました。彼女は上にも書きましたが神殿娼婦として「利用され」散々な絶望の中にあったのでした。しかし、イスラエルの神様、まことの神様が今ここに来ようとしている、そのことを知った彼女は、この地域の中にある偽りの神々ではない、人身供養をさせたり、子どもを火の中に通したり、その供養のために自分の体を捧げさせるような存在もしない神に縛られ絶望の中にいる彼女を救い出してほしい、と神様の救いを願っていたのです。そして今、遊女ラハブもまた、救いの時をその絶望の壁の中で待っていたのでした。
いや、もっというと今そのエリコの町にいる人たちのためにも救いの機会となった。その7日間は。神様なら、1発でその町を攻め落とす事など正直わけありません。何せ神の御子たるイエス様がそこにおられるのですから、やろうと思えば一発でしょう。しかし、同時にこの7日間の救いの知らせが、悔い改めの機会がその町に訪れていたのです。
昨日、神様は私たちと出会ってくださる、その時私たちがどうするのかが肝心なんです、という話を書きましたが、実に今イスラエルの民にしても、ラハブにしても、町の中にいる人たちにしても、その決断の時だったのです。神の御子たるイエス様が彼らと共にいてくださる、絶対に不可能に近い状況にあってそれでも神様に従うか、絶望の中にあって神様に希望を見出すか?悔い改めと救いのメッセージを神様の愛と受け取り、悔い改め、その町から抜け出し神様の元に行くか、それによって大きく変わるのです。
ここでイスラエルの民は勝利し、この神様が与えると約束した地を獲得し、また遊女ラハブ、という姦淫を嫌う彼女にも神様はその救いのメッセージを届け、彼女は待ち望み救いを受け神様の民・家族に加わり、なんとイエス様の系図にまでその名が残されるほどになった。信じられないほどの大いなる神様のその恵みに与ったのです。やっぱりあの女はだめだったとは神様は思わなかったから、救い主イエス様の系図(分かりやすく言うなら家系図?)に彼女の名を記させることを恥とも思わなかった。ただ、エリコの民で悔い改めたのはラハブとその家族だけだったのは残念ですがその悔い改めなかった民は滅びゆく事となったのでした。同じ民であっても全く違う結果。何とも残念な話。救いの御手は誰しもにも伸ばされている、でもそれを取るかとらないかでは雲泥の差なのです。
さて。この話は昔の出来事では終わらない。昨日も書きましたが、イエス様はあなたと出会われるために、遠いところで鎮座しているのではなく、神であられる事を捨てられないとは考えずに人となって生まれてこられ、あなたと出会いに来られました。あの救われるに値しないエリコの町にさえ。遊女ラハブの家にさえ。同様に、神様の目から見たら、こんな身勝手な人など、と言われてしまうような私たち、見捨てられてもおかしくない、神様を神様としない、操り人形のようにしか見ないような私たちをも神様は憐れまれた。
罪の暗闇の中にいる、どうにもならない罪という敵、サタンという敵、今目の前にあるその城壁を、神様との関係を隔てるその壁を打ち砕くために、ラハブのようにあなたを囲うサタンの囲いを打ち砕くために、イエス様は来られ、その救いのメッセージを届けられた。
外側にいるイスラエルの視点で見るなら、私たちを押しとどめる問題、戦い、また祝福を妨げる壁を打ち壊すために、内側にいる人たちからしたら、彼らを苦しめる罪、絶望の中にいる、希望のない人たちに希望の角笛を吹き鳴らし、開放するために。十字架に一切の私たちの罪、苦しみ、絶望を背負い十字架にかかり葬られることによって、あなたの壁は打ち壊された、神様の祝福を阻害する壁は打ち砕かれたのです。あなたの勝利の7日目は必ず来るのです。
どうぞ、この開放の7日目があなたに訪れることを信じましょう。もしかしたら来るまでの間、ラハブのように虐げられる日があるかもしれない、しかし、7日目までの間にラハブに偵察隊が希望を伝え、神様の到来を告げる角笛が吹き鳴らされていたように、主はあなたを覚え、必ず7日目、救いと解放、祝福と希望の日、主が壁を壊し救われる日が来ますから。私たちはただラハブのように赤い紐をかけ、神様の保護、愛の中に留まり、また主を待ち望み、希望を語り続けようではありませんか。主がその罪の壁、神様との隔ての壁を十字架によって打ち砕かれる時、神様の御国があなたの内から広がって行くから。ただただ、あなたに語り続ける、角笛を鳴り響かせ続けるイエス様に期待し続けよう。主がイエス様のいのちをあふれさせる地を、新しいあなたをすでに用意され、与えて下さるから。