ー誰が保障しているのかを忘れずー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前は、あなたがたはどうであったか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。―主の御告げ―さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。」

ハガイ書215-19

 

私たちは現状に左右されやすい。しかし、あなたを贖われたイエス様があなたと共にいる、それがどれだけ素晴らしいのか、その方が共にいる喜びを、そして後には栄光の内に受け入れて下さる、天の御国で迎え入れて下さるその最高の喜びを覚え歩もう。

 

さて、↑のことばは、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民、神殿を再建しようと頑張っていたけど、周辺国に邪魔されにっちもさっちもいかない状況の中、預言者という、神様のことばを預かりそのまま神様に伝える人の一人、ハガイさんを通して神様が語られたことばです。

 

この前の章では、「現状をよく考えよ」と言われていたのですが、この時は神様のことを後回し後回し、まず自分のことを第一としよう、と歩んでいた、その中で、神様があなたの土台なのに、その土台を忘れてどうするんだ?と神殿再建に取り組むよう語るのでした。どうしてか?やはりこれは神様から出たこと、それゆえに神様の約束としての、神殿再建、神様を彼らが迎えることによって、彼らの内に神様が住まわれ栄光を現されるから。

 

と、ちょっと本題の前のところを解説しましたが、その励ましの元、彼らは神殿再建に再び取り組むのでした。しかし、相変わらず周辺国からは妨害がありました。まあ世の中神様を中心に歩もうとすると、迫害があるというのは今も昔も変わらないわけですが。

 

そんな中、ペルシャに当時高官として仕えていたダニエルというイスラエル人を通して神様が働かれ、当時のペルシャ帝国の王、ダリヨスが直接神殿再建の許可を与え、これによって邪魔はあれど、神殿再建に誰にも文句を言う筋合いがないほどに取り掛かることができる状況になったのでした。

 

ただ、残念ながら荒廃したエルサレムで再建するのですから、物質的には劣っていましたし、見た目はみすぼらしく、かつての栄光が薄らいでいるように彼らは見え、力をなくしていたのでした。彼らは神様が彼らの内にご自身の愛を現そうとされているということに注目しなかった。現状ばかりにとらわれ、誰が彼らを捕囚から救われたのか、誰が神様なのかがすっとんでいたのです。

 

そんな中、ハガイを通して神様は↑のように励ますのです。その直前にも「主の家(宮、神殿)の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる」と。このわたし(神様)が、神殿再建・本来あるべき姿に回復させようとしているんだ、それは人がかつて建てようとした物とは大きく違う、神様ご自身があなたの内に働かれて大いなることをする、人が建てる物とはわけが違うんだ、人がなせることとは比べ物にならないことを神様がするんだ、と約束されたのです。

 

↑のことばは、神様から発せられた言葉。これをしたら、あれをしたら、の前に約束がある。だからさあ、神殿再建に取り組もう、あなたは神様のこの愛を欲するか?臨むか?と彼らに決断を求めたのです。そうして彼らは神殿再建に着手し、完成に向かいました。少なからず神様を自分の神殿にお迎えしていた世代は大いに祝福されていくのでした。まあ後は離れて行ったのですが…

 

さて、この話を読んでだから何?と思う人も多いでしょう。こんなの私たちには関係ない、と。でも、神様は私たちの内にご自身の住まいを建てよう、とイエスキリスト様をお遣わしになりました。私たちの本来の姿は↑のようにあるように、神様が私たちの内に住まい、その御心を現されることによって私たちは本当の意味で生きた者となる。神様ご自身が私たちを養ってくださるゆえに、その神殿は輝く。

 

でも、私たちは神様を追い出してしまった。こんな神様いて何の「私の」役に立つだろうか?もっといくらでもあるじゃないか、と。そして神様の養いを失い、神様ご自身を追い出してしまった、その罪によって、私たちは本来の神殿を失ってしまった。しかし、私たちの罪によって壊れてしまった神殿、自分で建てた神殿。どうにもならず、サタンの手に縛られ、痛み悲しみ、罪の奴隷となって荒廃してしまった神殿を建て直すために。だから、この壊れてしまった神様との関係の和解のために、神の御子たるイエス様のいのちという代価を支払われた。私たちが本来支払わなければならない罰をその身におわれて、神様と和解させて下さろうとしたのだ。このイエス様によって私たちが取り戻される時、私たちは神様と和解し回復するのです。

 

私たちは忘れてはいないだろうか?誰があなたを造られたのか?あなたのためにどれだけの代価を支払われたのか?それは真の神様であり、神の御子イエス様のいのちという代価が支払われたではありませんか。そのあなたがどうして人の建てた神殿に劣るだろうか?私たちはもっと、世の富や栄華よりも、天における富や栄光を求めようではありませんか。あなたは神様の子とされるんですよ?イエス様をあなたの救い主として受け入れるなら。このイエス様にあってあなたは保証されているんですよ?

 

このイエス様のいのちという代価をもって取り戻された今、「さあ、あなた方は、今日から後のことをよく考え」ようではありませんか。あなたを贖われたイエス様があなたと共にいる、それがどれだけ素晴らしいのか、その方が共にいる喜びを、そして後には栄光の内に受け入れて下さる、天の御国で迎え入れて下さるその最高の喜びを覚え歩もうではありませんか。