ーイエスさまでいっぱいにー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである。」

民数記3533-34節

私たちは神様が造られた。だから神様はあなたの内をまことのいのちで満たしたい。私たちは、別なものでいっぱいにして神様の喜びを取り除いてはいけない。神様の愛を、御心を、大胆に求めて行こう。

 

さて、↑の話はイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から神様の憐みによって救い出され、そこで終わらず、彼らにかつて先祖たちに神様ご自身が誓った、父と蜜の流れる地・すなわち神様ご自身がその恵みを注ぐ、愛で満たす、そのような土地を与えると誓われた、その地にいよいよ到着しようとしていた。

 

その時神様は↑のように語られたのでした。「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである」と。

 

まあ、実際はもっとものすごく長い話なんですけど。神様は、私たちの幸せを願っていろんなことを語られてきた。その本質的な部分がここに見えるわけです。

 

この箇所のちょっと前に、逃れの町という、過失致死等、誤って人を殺してしまい彼らを復讐者たちの手から逃れさせるための町を(私から言わせたら、神様はその復讐者に復讐心による錨ではなく、慰めを与えるためにもあったのではないか、と思うところですが、そのことについてはまたいつか別な機会に)その地に建て、レビ人という神様に仕える人を住まわせるように定められました。

 

誰が?神様が、です。裏を返せば、神様がこの地の中にご自身の愛を現したい、という意思表示。神様はレビ人たちを通して、彼らの生涯のうちにご自身の愛を注ぎたい、だから彼らの土地に、彼らの生涯のうちに神様の住まいを建てるように、迎えるよう、そう訴えたのです。こればかりは自主的な応答です。神様は住まいたい、あなたの内に愛を現したい、あなたはどうしますか?と。「主であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである」、あなたはどうします?と。

 

私たちは、自分の罪ゆえにこの土地を汚してしまった。神様が本当は宿り、いのち溢れる物にしたかったのに、私たち自ら追い出した。そしてさまざまなもので満たそうと思った、でもそれが出来ない。それだけではなく様々な痛み、悲しみ、多くの血が、色んな意味の血で満たされている。

 

でも神様はこの土地を、あなたを洗い聖め新しくしたい。本来あるべき地に、あなたに戻したい。でも、↑にあるように、その地に流した血は、その罪は、本来はその者の血によってしか聖められない。でも、神様はあなたを愛しておられる。だから、神様はご自分の御子イエス様にその血を身代りに流させることにした。何の罪もない、神の御子たるイエス様を身代りに十字架に架け死なせることによって、私たちの汚れてしまった地を、罪を洗い聖め、神様の栄光、資産、御心、愛でいっぱいに満たそうとされたのです。私たちがこの十字架を、あなたのうちに据え、悔い改める時、あなたは罪赦され、洗い聖められ、あなたのすべては新しくされる。罪も、悲しみも、痛みも、すべて洗い聖められ、神様の喜びで満たされる、いやあなたの内に住まわれるイエス様が聖め続けて下さる、ご自身のいのちで満たし続けて下さるのです。死して後、天の御国に行くその日まで。

 

私たちは、あなたは、あなたの内に何が満たされているだろうか?そこに神様のいのちが溢れているだろうか?今日、私たちは主をお迎えし、新しくしてもらおう。神様はあなたの内に住まいたい、と御子イエス様まであなたに差し出された今、私たちは、あなたは何をのぞむだろう?何を願うだろう?もうあなたの内に偽りの神々や重荷などで満たすのをやめ、神様のいのちであふれさせていただこうではありませんか。御子イエスさまさえ惜しまず与えられた神様の愛があなたの内に溢れる、それがどれだけすごいことなのか、今日今一度思いを馳せ、主と共に歩もうではありませんか。