「ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。」
エレミヤ書52章31-34節
神様はあなたを愛しておられる。私たちは疑うが神様はあなたを愛している。それはあなたが想像する以上に。あなたのためなら惜しまず御子イエス様いのちさえ与える方、それが神様。そうしてあなたにいのちを得てほしいのだ。この神様の愛を忘れてはいけない。
さて、↑の話は、バビロン捕囚にあったイスラエルの一人の王の話。エホヤキン。いや、その王国の最後と言ったらいいのか?その時に何があったのかの記録が↑。
彼・エホヤキン王は祝福されたダビデ王の直系の子孫だった。神様を中心にイスラエルを据えたダビデの王国は本当に反映した。霊的に。神様の愛が、その御心が注がれていたから。しかし、次の王ソロモン辺りから神様から離れ、王国は分裂し、ついに北イスラエルはアッシリヤ帝国に、南ユダ王国はバビロンに捕囚されていくのでした。
彼の立場からしたら、神がいるならどうしてこんな目に私を合わせるんだ??そう思いたくなるような状況だった。しかしエホヤキンは、預言者という神様のことばを預かりそのまま伝える人の一人、エレミヤを通して神様が自分にも、こんな見捨てられてもおかしくない自分に救いの道を語られたことに驚き、彼はその神様のご計画に信頼するのでした。確かに、状況は捕囚に向かう。捕らえられる。でも、「奴隷としてバビロンに仕える者に、いのちを分捕り物として与える」と一見してありえない話の中にも、「神様が」いのちの分捕り物を与えて下さるというなら、と信頼したのです。
いって徹底的に罰してやる。永遠に奴隷として生きろ、とかそんな宣告ではなかった。彼が神様に帰るチャンスがまさに与えられていたのでした。バビロンに仕える、というよりも神様に信頼する、その時に彼は生きた者となる、だからわたしに帰れ、そういうメッセージを神様はエレミヤを通して語られていたのです。神様が彼の神様となる時、彼の内に神様の栄光が現されるのだから。それに信頼するか、否か、そこなのです。事実、この捕囚期に神様に立ち帰った人たちは本当に生きた者となった。多くの助け人を神様が建て、またその彼らを通して神様はイスラエルを守り、慰め、時に戦われた。信じられるだろうか?しかしこれが神様の愛。
確かに捕囚は罰だ。私たちも神様から離れれば、神様の恵みを失い、罰、と言わないまでも神様の御手から離れ、罪の手に捕らえられてしまう。霊的なバビロンに。何より私たちの罪に対する報酬はやはり本来支払わなければならない、それ永遠の神様との離別、死。でも、神様に立ち返る時、私たちはその囚人服を着せ変えられ、神様の子とされるのです。↑のエホヤキン王のように。
エホヤキンは王でありながら囚人となり捕らえられた。でも、その囚人服は着せ替えられ、彼は王たちのくらいより高くされ、かつ、なんと一生の間王と共に食事をし、その生活費まで面倒を見てもらった、保障されていたのです。
一方で、この捕らえられたエホヤキンの代わりに叔父のゼデキヤが王として置かれましたが、この神様に信頼せず、私は私だ、と神様に背いた結果、彼は、ちょっと書きにくいのですが、聖書には、「ゼデキヤの両眼をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた」と、全く正反対の結果となったのです。もし彼が悔い改め、エホヤキンと同じ道を選んでいたら・・・?
私たちにも神様は同じように語られるのです。私たちは本来は罪の奴隷として霊的なバビロン・永遠のさばきの道にひかれて行かれる身でした。神様から離れ、神様を捨て、神様を神様とせずに自分の操り人形のようにしか見ていない自分勝手な私たちなど囚人服を着せられ、神様のいのちの御座から引き離され、最後は裁かれる運命だった。この地上にあっても、神様の食卓の前味さえ味わえず、自分で好きなように生きているつもりで本当のいのちの養い、分捕り物をいただく事などできない身だった。
しかし、エホヤキンやゼデキヤに示されたように、神様は私たちに救いの道を示された。私たちの代わりに御子イエス様を十字架に架け罰しよう。このイエス様の十字架の前に悔い改め神様に立ち返るなら、あなたは生きた者となる、神様の本当のいのちの分け前をいただき養われ生きる者とされる。あなたはどちらを選ぶか?と。それでも神様などいなくても生きていけると離れ続けるか、イエス様の前に帰り、自分の罪を認め悔い改め、永遠のいのちをいただくか。
私たちがエホヤキンのように神様の前に立ち返る時、十字架の前に悔い改めるとき、あなたの囚人服は脱がされる。もうあなたは奴隷ではない、罪の奴隷でもない、裁きの対象でもない、あなたはその瞬間神様の子とされる。その衣をイエス様の十字架のゆえに着せていただけるのです。もう罪の奴隷、サタンも剣も迫害も何もあなたを捕らえる事などできない。あなたは神様のその食卓の前にいつもつき、養われ、生活費・もとい神様の恵みの中、この地上の歩みの中にあっても養われ歩むのです。あなたの内に神様の愛が、恵みが、祝福が、十字架による御心があなたの内に成されあなたは神様にあって生かされるのです。そして死して後永遠の御国で主と共に生きるのです。
私たちはイエス様の十字架にあって、神様の子とされる時、その素晴らしい天の御国の前味を味わわせていただくことができる。囚人服を脱いだ今、神様の子とされるのだから、どうして天国に行くまでは我慢しなさい、というだろ?神様はそうではなく、もうイエス様のいのちを持って買い戻し神様の子とした。白い衣を着せて下さったのだ。
ならばもう、罪の奴隷・囚人としての歩みはもうやめよう。神様はあなたにどのような場所、仮に戦いのさなかであろうと、捕囚地であろうと、語りかけ養われたように、愛するあなたを見ておられ、養おうとあなたを待っておられる。今日、主の前に帰り、いのちの衣をいただき、主と共に歩み始めようではありませんか。囚人としてではない、神様の子として。
イエスキリスト様によって贖われるということは、神様による平安を持っているという事。あなたはこのキリストイエス様のまことの救いを持ち、持ち続け、歩もうではありませんか。