ー柔和の勧めー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。主はイサクに現われて仰せられた。『エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。』…イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。そうしてアビメレクはイサクに言った。『あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。』イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。…イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。『今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。』」

創世記261-22

 

イエスキリスト様がかつて、このように人々に、いや私たちにも教えられました。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」。私たちは神様に従うその時にこそ、本当の意味で神様の祝福をいただく、神様の祝福が注がれる地・あなたとなる。

 

ということで柔和。柔和というと物腰軟らかい人、というイメージがある。なんでもいいよいいよ~と受け入れる人?でも実はそうではない。本当の柔和というのは神様に従う人のことを言う。その聖書の中の代表格の一人が↑に登場するイサクさんという人。

 

彼は、信仰の父と呼ばれるアブラハムの影に隠れ、あまり彼について多くは語られない。でも彼ほど柔和だった人はいない。イエスキリスト様以外に。まあ子どもへの偏愛についてはなんとも言い難いですが。ただ、誰だって失敗はある、ただ彼はそれでも神様にとどまり続けた、「わたしの示す地に住みなさい、この地に留まりなさい」、すなわち神様ご自身の恵みのあるところにいつも立ち帰り、心を含めて自分自身が住みついていたのでした。失敗はあれどいつも、そこに帰っていたのです。

 

と、↑の話に戻って、そんなイサク。ある年に大飢饉があり、まだ土地の豊かなエジプトに一度避難しよう、と最初は考えたのですが、神様の、「わたしの示す地に住みなさい、この地に留まりなさい」という言葉に従い、結果彼は大いなる祝福を得るのでした。人の目に見たら、恐らく当時の状況を考えればエジプトに降る方が早い、神様が祝福すると言ったって、具体的にどうなるかなんてわからないじゃないか、と普通なら考える。でも彼は神様が自分を愛して下さって、約束してくださっているなら、まだ仮に見えなくても実現させてくださる、そう信じ、神様が示すところに、神様の約束そのものにとどまり続けたのでした。

 

結果、どうなったか?↑を見れば一目瞭然。その地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見、富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになった。周りの国がねたむほどに。たかだか一介の一族をなぜ妬む?それほどに彼らが祝福されていたからに他ならない。

 

よく見てみたら、イサクは「収穫を見た」、そう、彼は自分の努力でそれを勝ち得たのではない、その神様の約束、おられるところにとどまり続けた中に、その収穫を「発見」したのです。彼がしたのはただ種を蒔いただけ、神様に従っただけです。ただその一見何の意味がある?神様に従ったって、と思うような中に、この神様の中にこそ彼は本当の収穫を見出したのです。

 

それは、後半のペリシテ人たちの妨害の中にだって同じだった。彼はどんなに妨害され、邪魔されようとも争うことをせず、何をこの野郎、などと反撃に出たりもせず、神様が自分を導いてくださっているなら私はそれに従うまで、とさらに導いてくださる先に向かっていくのです。仮に困難があろうとも、この旅路は神様が先導者なのだから何を恐れる必要があるだろう。この度は、この人生は、私は神様に導かれているのだから、必ず恵みを見出す、と信じた。

 

結果、ついには争いはやみ、それだけではなく、なんとこの彼の祝福を見た他の国が彼ら小国と同盟を結びたい、と言わしめ、驚くべき恵みを彼らは発見したのでした。

 

最初にも申し上げましたが、柔和とは、神様や他の人に対する穏やかで、従順であること、神様に従うことです。イサクは神様の、神様の示すところに留まりなさい、という命令に従順に従ったのです。この信仰が、神様の愛が彼の心に注がれているという事実、希望が彼に忍耐を生みだしていきました。私たちはこの神様の愛が私たちの心に注がれている事実、希望を信じているでしょうか?この神様ご自身を私たちはどれだけ思っているでしょうか?

 

私たちは忘れてはいけない。イエス様の最大の柔和、私たちの罪を贖うため、何の罪もないのにもかかわらず、私たちの罪を赦すため身代りにその罪を背負い十字架に架かられ死なれたことを。裏切る弟子たちを見て、ののしる群衆たちを見て、イエス様を見捨てる、当時の宗教家たちのように、自分の必要に答えるだけの操り人形的神を求める私たちを見捨てず、最後までその十字架から降りることなく、神様に従い続け、柔和の限りを尽くされてでもあなたに愛を注がれ、死なれたことを。そしてよみがえられ、私たちに赦しの道を与えて下さったことを。

 

あなたはそれほどまでに愛され、御子イエス様のこのいのちにあって、私たちは神様のもの・子と今やされたのです。私たちはこの道を歩もう。このイエス様の救いをいただく時、私たちは地を受け継ぐ・神様の子として豊かな恵みの中を歩むのです。人の目では想像し得ない神様の御心があなたの内に、御子イエス様にあってなされる。私たちはこのキリストの柔和によってなされた神様との和解の関係の中、このイエスキリスト様にとどまり続け歩もうではありませんか。

 

私たちは主の十字架の前に、御言葉の前に柔和であろう。主の前に柔和であるということは力強い。そこには神様の御心が、御子イエス様をあなたの身代わりに十字架に架けるほどの愛によって取り戻された、それほどの神様の御心があなたの内にあらわされるから。