ー本気の関係ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えないだろう」

出エジプト記207

 

神様はあなたが呼び求めることを待っておられる。私たちはみだりな関係ではなく、本気の関係を神様と持ちたい。神様は本気であなたを愛しておられるから。

 

ずいぶん久しぶりになりますが十戒。神様が私たちの幸せを願い教えられたこと。その一つが、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えないだろう」。あれ?神様をみだりによんだりしてはいけないの?そんな遠い関係?なにかイメージと違う、と感じる方がいるかもしれない。そもそもそんな遠い関係のどこが幸せなんだ?と。

 

そもそもの話、名を呼ぶ、という事はその人との関係を持つ上で重要な意味合いを持ちます。私たちは誰かに話をする時、呼びかけ、必ず相手の名前を呼びます。ねえそこの人、と言っても、たくさんいる人の中の誰かであって、誰なのかわからないのです。相手の名前を呼んで初めて始まるんです。名前を呼ばれるとその人は振り向くなり反応して、その人との豊かな時間、長い時間であろうが短い時間であろうがその人との時間が始まるのです。

 

そこで神様は考えたのです。どうしたら彼らがわたし・神様の事を覚えられるか、私を頼るのか?私の元に帰ってきて、わたしと共に歩む歩みを始めるか?よし、こうしよう、とご自身のお名前をお示しになったのです。モーセが神様と出会った時に、お名前を教えてください、と尋ねた時に、わたしは主・ヤハウェ様、昔いまし、今いまし、これからもい続けるものなんだよ、と。

 

考えてみればむやみに呼ぶな、というなら名前をわざわざ教える必要なんてないんです。困っている時に気まぐれで助けてあげよう、なんて神様だったらそんな名前を示す必要はありません。でも、むしろ名前を教える事によって、神様が答えられ神様という方を体験するようになる、だから神様の名前を知る事によって、もっともっと神様に近づいてほしい、という思いがあったのです。むしろ私たち一人一人の名前を呼んで。私たちが神様の元に帰ることを。そしてあなたの内に恵みを注ぎたい、あなたと豊かな歩みをしたい、だから、と願われたのです。

 

イエス様も、祈る時には、天にいます私たちの「父よ」、と呼びかけるように主の祈りで教えられましたよね。そう、私たちが神様から離れ、罪を犯し、離れてしまったゆえに苦しむことを良しとできない、だから私たちをいかに愛しているかを知らせるためにご自分の御子イエス様を十字架に架けるという行動に神様は出たのです。そして私たちは神様の家族に入れられ、お父さん、と呼ぶ事を赦されたのです。そのイエス様の御名ゆえに、十字架ゆえに、イエス様の御名によって祈る・求めるなら何でもあなた方のためにしましょう、と約束されたのです。

 

ちょっとだいぶ話が本題から離れ始めましたが、じゃあそうすると、みだりにとなえるな、とはどういうこと?みだりやたらと唱えてはいけない、とすると、むやみやたらと祈るな、できるだけ自分の力で何とかしなさい、と言っているように思えるわけです。それでは聖書全体の語っている事と矛盾します。自分の力で頑張って、その後に呼び求めなさい、では聖書と矛盾するじゃないですか。頑張ったら、応える、善行を積んだら答える、なんて聖書のどこを開いてもありません。むしろそうした不信仰を叱責される箇所を山ほど見かけますよね。

 

実はこのみだりに、ということばは、悪を行うとか、偽るとか、むなしい、と言う意味なのです。神様が警告しているのは、名前を何回呼ぶとか、そういうことではないんです。年に1回、何回まで呼んでいいのではない、特別な人だけ呼べるのではないのです。神様の御名を悪用するのはもっての外、たとえば、自分の都合のために利用したり、これが神様の御心なんだ、と昔の偽預言者のようにこれが神様の御心なんだ、と自分勝手に極端な解釈をしてしまう、聖書では本当はそんなことを言っていないのに、自分勝手に解釈するとか。

 

神様の存在を自分勝手に造り変えたと、こんなイエス様の御名によって家族に迎えられたのに、それを疑い、こんな自分など神様が応えてくれるはずがないと不安になったり。何も見えず、神様のその名に現されたご愛を疑い、他の神と呼ぶに値しないものを神にしてみたり。神様が見えずに、自分の内側に造りだされた不安や恐れ、失敗、過去の傷と言った虚像の神に縛り付けられたり。

 

私たちは十字架の愛、神様のご好意を引き下げてはいけない。神様の愛は私たちが図る事はできない。神様はこんな神、と引き下げてはいないでしょうか?神様の示された愛は、そんな私たちのためにご自分の御子イエス様を差し出される愛です。神様の御名を忘れ空しい関係になるのではない、失われた私たちを取り戻しいのち溢れる関係を願われたのです。神様の存在をあなたの中で他のものと同じ、八百万の神のような虚しいものに引き下げてはいけない。神様は生きた神様です。あなたの内に栄光を現したいと願っておられるのです。

 

その本気の思いを現されたのが、イエス様の十字架に他ならない。あの十字架にあなたの名を呼び、ご自身のものとして本気の関係を取り戻すべく、罪による偽りの関係、空しい関係から、神様の子としての恵みの関係に引き上げるために、ご自分の御子を私たちの罪の身代わりにするという選択をされたのです。

 

私たちは神様を「みだり=偽りの、むなしい」者に引き下げてはいないだろうか?虚しい関係を持っていないだろうか?神様は御子イエス様にあってあなたと本気の関係を結ぶべく御子イエスさまさえ惜しまずあなたの身代わりに十字架で罰し死なせるほどにまであなたに愛を示され尽くされた。そのあなたは今この愛にどうこたえるだろう?私たちはこの神様の本気の愛に信頼し、近づこうではありませんか。虚しい関係、八百万の神々と並列に並べるようなことをせず、真の神様を主として歩もうではありませんか。神様はあなたに本気の愛を、御心をあなたの内に現される。私たちもまた本気の愛を持って応えようではありませんか。