ーみことばにはすべてがあるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

使徒の働き2027-32

 

神様のことばに、御言葉に足りない事などない。疑う余地もなければ、それは自分の考えとは違うから、と別なところから解決のアプローチをするまでもない。福音にすべてがある。御子イエス様ゆえに。

 

さて、↑の話はイエス様が十字架に架かられ、死なれ、3日目によみがえられ、天に昇られて後の話。パウロさんという人が伝道者としてあっちこっち伝道し、エペソで3年教会を建て上げて後、次のところに向かう前に残したことばの一つです。

 

パウロさんは彼らに大事なことを言い残したのです。それは分かりやすく言うと、彼らをかき乱し、苦しめる者たちが出る、と。ようするにキリスト教徒を迫害する者たちや、彼らに偽りの教えを混ぜ込み混乱させ、神様を疑わせ、神様から引き離そうとする者たちが出てくる、と。だから、福音にとどまり続けるように、と。パウロが彼らに語り続けたこと、それはイエス様の十字架の愛です。色んな問題についても語ったでしょうが、パウロはいつもその中心は、考えの中心は十字架にあることをどんなときにも語り続けてきた。ここに全てがあるんだ、と。

 

え?でも教会の話でしょう?私には関係ない、とこれを読んでいる人で思う人もいるかもしれない。私は大丈夫、と。でも、私はこれを今書きながら思い出したのは、実はこの事は古今東西昔からある問題。いや、天地創造の後、アダムとエヴァがエデンの園にいた段階からすでにあった事なのです。これは誰にでも仕掛けられる話。神様はご自身の恵みに「引き入れたい」。でも、それをサタンは良しとせず、神様から「引き離したい」から。神様のことを知らない人にも、ほら神様は何もしないじゃないか、と疑わせたり、別に神などいなくても大丈夫だろう?他にも色んな良い物があるじゃないか、と。

 

あのアダムとエヴァの時何があったか?サタンは「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」と、神様のことばを疑わせ、エヴァがそれを食べると死ぬからと返すと、サタンはこう返した。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」。まるで神様が彼らにとって良い物を与えない、独占している、とでも言わんばかりにそそのかすのです。あなたの事を愛していないから、これを与えないんだ、と。

 

でも神様は、アダムとエヴァのためにすべてを最初に備えていてくださっていた。神様の主権の場所である園の中央を侵すこと以外はなんでも食べていいよ、と。衣食住から伴侶、ありとあらゆるものを神様は備えていてくださっていた。しかも最高によいものを。しかしその神様が供えていてくださっているものを疑わせ、愛を疑わせ、神様から引き離した。

 

でも神様がケチだから園の中央の実を与えなかったわけではない。私たちは神様から造られたものであるから、神さから主権を奪い神となっても、そこには何にもないし生きることなどできない。むしろ神様が「アダムとエヴァ」いや「私たち一人一人」に、それぞれに必要な最善を、全てを備えて下さっているのです。

 

パウロは「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」と語った。そう、神様のうちにすべてがあるのです。ここには何の欠けもない。神様自身が供えてくださること、養い、そこには何の欠けもない、だから神様に全部委ねる、その神様ご自身があなたのうちに生きて働かれ、生かす。御国を継がせる、と。福音、ここにすべてがある、と。

 

本当に私たちは神様を疑う。状況に支配されやすい。自分の思う時に思う通にしないと、神様は本当に自分を愛しているのか?いや存在しないのでは?と疑い始める。クリスチャンでさえ。そして甘言に惑わされたり、それこそ人気取りのために御言葉を自分なりに捻じ曲げて耳触りのいい教えに、聖書と違ってもそっちの方が良いよね~と傾く。これ、パウロが本当に警戒し、警告していたこと。

 

しかし私たちは忘れてはいけないのです。神様はすべてを私たちに与えて下さる方だということを。それこそアダムとエヴァに与えて下さっていたように。神にはなれませんが神様の子として受け入れてももらえます。神様は、愛する私たちのために、ご自分の御子を惜しまず与えられた。神であられるのに神のありようを捨てられないとは考えずに人となって生まれてこられ、住まわれた。そしてありとあらゆる愛を、その足で訪ねながら注がれていった。そして最後はご自分のいのちを私たちの罪の身代わりに捧げられた。その十字架に、身代わりにかかり、身代わりに罰せられ、身代わりに死なれた。神様はそこまでも与えて下さったのです。

 

そうして、このイエス様の十字架の前に悔い改め、イエス様を自分の罪のための救い主として受け入れる時、私たちは復活のイエス様と共に新しく生まれ変わり、神様の子とされ、その素晴らしい特権を与えられるのです。御子イエス様のいのちにかけてすべてが与えられる。そのいのちさえ惜しまず与える方がどうしてあなたに最善をなさないはずがあるだろう?どうしてその神様の御心を疑う必要があるだろう?「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありえましょうか」。

 

私たちは御子イエス様にあるこの福音、Good newsに何も加える必要はない。サタンのように捻じ曲げる必要もない。自分勝手にあれこれする必要などない。神様は御子イエス様を与えるほどにあなたを愛されているのです。私たちはこの福音にしっかり立とう。夜も昼も、順境の日も逆境の日もこの福音を思い起こし、歩もうではありませんか。神様がどれだけの物をあなたに与えておられるか、愛しておられるのかをいつも覚え委ね歩もう。