「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」
箴言27章17節
人は一人では生きてはいけない。だから神様は、私たちに家族であったり、伴侶であったり、友を備えて下さる。そうして私たちは互いに支え合いながら、励まし合いながら生きている。
ある実験で、全く愛情をとことん注いで育てる赤ちゃんと全く与えないで育てた赤ちゃんを比べる、という実験があった(動物だった?)。与えないで育てた赤ちゃんが芯の強い子になった?打たれ強い子になった?NO。その愛情を与えなかった赤ちゃんはあっという間に死んだそう。こんな実験そもそもひどい話なのですがね。
話しは脱線しましたが、神様は天地創造の時、すべての物を備え、その後、アダムを造られました。でもその際神様はこうおっしゃりました。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と。そう、神様は人が一人でいることは良しとは思わなかった。互いに支え合う存在が必要、と考え、彼のために最高の伴侶を備えた。それがエヴァ。その神様の備えた最高の伴侶エヴァを、アダムは「れこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と最高に誉め、プロポーズ?した。まあ、彼らは後に罪を犯し、互いに罪を擦り付け合ったのですが、エデンの園から追放された後も二人出させ合いながら、神様にもう一度向かって行ったのでは?と思うところ(このことについては聖書に書かれていないので想像ですが(^^ゞ)。
そう。私たち一人ひとりは神様によって造られた存在。神様にとっては私たち一人ひとりは大切な子。アダム。エヴァ。その私たちに神様は私たちにとって大事な存在を神様「が」備えて下さっているのです。それは伴侶であったり、仕事のパートナー、家族、地域の人、教会の人、友。神様が供えて下さった助け手、友、そうした方々は神様が供えて下さった方ですからそうして確かに私たちは研がれるでしょう。鉄が鉄によってとがれるように。
でも、アダムとエヴァがそうであったように、その関係だって完璧ではない。私たちを本当にとぎ、生きた者としてくださるのは神の御子たるイエス様によるのです。私たちは神様の息吹を吹き込まれ、初めて生きた者となった。私たちは神様によって造られ、神様のくださるもの、神様の愛、神様の恵みによって生きる者とされたのに、離れては生きていけない。
だから、私たちを神様が本当の生きた者となるために、その失われた姿から、本来あるべき神様の子としての恵みの中に入れられるべく、私たちの受けるべき死を取り払うべく、神の御子たるイエス様が私たちの罪を身代りに背負われたのです。
そのイエス様は、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」と語られた。これを聴いた人たちはイエス様を裏切ることをイエス様は知っていました。でもイエス様は彼らを友と呼び、その友のために命を捨てよう。あなたの背負うべき罪の呪い、刑罰、一切を十字架に背負い死のう、とおっしゃったのです。
なぜそこまで?その直前にイエス様はこうもおっしゃりました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」。あなたが、このイエス様にあって、神様と沸かされ神様の子となり、神様の喜びがあなたの内に満ち溢れさせるために、あなたのためなら死もいとわぬ、と決断され、十字架に架かられた。
私たちはこのイエス様という友によって本当の意味でとがれ、研がれるだけではない、本来あるべき姿、本来神様があなたの内に望んでいる、あなたのために神の御子を十字架に変えてでも愛されるその思いを、愛を、恵みを、祝福を、注がれるいのちの関係に私たちは生きることができるのです。
私たちはもう、宗教的な神様との関係を辞めよう。私たちはただ真心から神様に悔い改め立ち返り、このイエス様の十字架によって始まる新しい、神様との関係の中に生きよう。疑う必要なんかない。あなたは御子イエス様の十字架の血潮によって神様と契約が結ばれた。あなたはもう神様の子なのだから。今日、この主に信頼し、また従い歩もうではありませんか。「主が」あなたを研がれる。私たちが努力する必要はなく必要なのはただ悔い改め神様に帰る事だけ。主に、帰ろう。まことの友があなたを今日、待っておられる。