「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』」
黙示録2章12-17節
勝利を得る者には、隠れたマナが与えられる。古い罪人としての私ではなく、イエス様の十字架によって私たちは神様の子、としての新しい名、あなたとなる。
さて、上のことばは、復活のイエス様が、12弟子の最後の一人として生き残っていたヨハネという人を通して、教会に向けて、また私たちに向けて語られたことばです。黙示録は一つの面としてはやがて来る終わりの時について語られているのと同時に、迫害期の当時の教会(この黙示録が語られたのは1世紀)に、また今を生きる私たちに向けても語られたもので、7つの教会に向けて最初イエス様はメッセージを語られたのですが、上のはその内の一つ。
で、このペルガモの教会というのは、サタンの働きの中で勝利した教会として紹介されています。どんな迫害下にあっても、どんな苦境にあってもその信仰を捨てず、ひたすらに神様に従う彼らについて神様は非常に評価されていました。しかし一方で、ニコライ派(まあ反キリストのグループとも言えますが)の教えが蔓延していて、それについてイエス様は忠告するのでした。
じゃあ彼らはどんなことを教えたのか?それは、利益と繁栄、金品、成功と言ったご利益宗教に変えてしまった。分かりやすく言うなら、利益がなければ神を信じない、もうかれば神を信じる、とか。これ、結局聖書の一番最初の罪、アダムとエヴァの罪のころと何にも変わらない。自分に神が利益を与えるか否かで神を信じたり、捨てたりする。イエス様を十字架に架けた人たちもそうですし、私たちもそう。ある意味では何も変わらない。
これ、本当に私たちは気をつけたい。それは神様を神様とはしていない、自分が神となっている。それは罪。罪は別に犯罪行為だけを指すわけではなく、神様を神様としないところから、自らが神となるところから始まる…この事についてイエス様は曖昧にされずに、明確に「悔い改めるように」と語られた。これ、罪、また神様から引き離そうとするものに対してイエス様は明確に戦われる、と。
↑の話を読むと、たまに誤解されるのですが、別に私たちが利益を求めてはいけない、繁栄を求めてはいけない、というわけではないのです。でも、それは↑のことばをよく見るとわかる通り、イエス様が「隠れたマナ」、あなたがこの罪の勝利者となるとき、あなたのうちに、この世の繁栄ではない、神様の祝福が溢れる、神様の喜びが、栄光があなたのうちに溢れるのです。その結果として、いわゆる繁栄的な物があるかもしれませんが、この世的な繁栄を得なければ神はいない、と考えるのは順序が違う。それではこの世の繁栄が神となってしまう。
アダムとエヴァは神様が与えているものを疑った。神様はほんとうによいものを与えない、と。まあサタンにそそのかされたという側面もありますが、それを選び取ったのは彼ら。彼らはそれを探しに神様の元を離れたけど決して見出す事は出来なかった。神様は彼らに、私たちに最善を備えてくださっているのにそれを疑ってしまった。疑う。
私たちはもはやそれこそ↑のイエス様のことばのように滅ぼされてもおかしくはなかった。でもイエス様はこの罪と闘われた。私たちを捕らえる罪、サタンを打ち砕くために戦われた。主ご自身が私たちの間に人となって来られ住まわれ、悔い改めよ、わたしに帰れ、本当のいのちはここにあるんだ、と訴え具体的にもご自身の愛を現され、彼らの失われたいのち、問題を取り戻していった。でもそこで終わらず、私たちの失われてしまった本来の利益、繁栄、神様が私たちのうちに本来計画しておられた喜びの計画を取り戻すために、私たちが↑の話のように剣で討たれる事がないように、ご自身が私たちのその裁きを背負われ、十字架に架かられ死なれたのです。そして父なる神様によってよみがえらせていただいた事によって、死も、罪も、病も、痛みも、何よりサタンに勝利された。その剣によって打ち砕かれたのです。
「鋭い、両刃の剣を持つ」というと怖いイメージがありますが、イエス様が何のために戦われるのか?あなたを罪の奴隷、死、裁き、神様を知らずに苦しみ捕らえられているその所を打ち砕かれるために戦われる。あなたが滅びる事がないために。その剣を持って導かれ、また御言葉の剣をもってあなたに語られ、指示し、導かれる。イエス様はあなたに「隠されたマナ」、罪の赦し・永遠のいのちを得てほしい、そう願っておられるのです。そしてその和解された関係において、私たちのうちに神様が働いてくださる、そのことを通して私たちは本当の名、新しい名を得るのです。本当のあなた、神様の本来願っておられる本来のあなたへとなっていくのです。神様の子として。神様の資産を、愛を、恵みを、祝福をあなたは受け継ぐ、その時、この世では測り知れない神様のくださる栄光、神様のいのちという繁栄があなたのうちに広がる。それはこの世のものとはわけが違う。
イエス様は、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている」とあなたにも今日語られている。あなたは今日何を求めているだろうか?あなたのためにご自分の御子のいのちさえ惜しまず与えられる方のくださる愛に、その方が共に歩まれ戦ってくださるなら何を恐れる必要があるだろう。そのいのちをもって取り戻された新しいあなたへの神様のご計画、御心を何を疑う必要があるだろう?あなたがイエス様の十字架の前に悔い改めるとき、あなたは勝利者、神様の子とされるのです。私たちは何よりも神様を求め、その御声に聞き従い歩もう。