ーイエス様ではなくバラバ・私の釈放のためー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに『あなたは、ユダヤ人の王ですか』と尋ねた。イエスは彼に『そのとおりです』と言われた。しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。そのとき、ピラトはイエスに言った。『あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。』それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。『あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。』ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。…『あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。』彼らは言った。『バラバだ。』ピラトは彼らに言った。『では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。』彼らはいっせいに言った。『十字架につけろ。』だが、ピラトは言った。『あの人がどんな悪い事をしたというのか。』しかし、彼らはますます激しく『十字架につけろ』と叫び続けた。そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。」

マタイによる福音書2711-26

 

十字架に架かる時が近づき、最後の晩餐を済ませ、ゲツセマネの園で弟子たちや私たちのために最後の祈りをささげられて後、裏切者のユダの手引きによってついにイエス様は逮捕された。無罪の罪で。そしてこの辺りをローマ帝国から任せられていたピラトという人に手渡され、いよいよ最後の判決へと向かって行きました。

 

ユダヤ人の宗教指導者たちは、自分たちの名誉を守るため、神を愛すると言いながら実は自分が神でありたい彼らはイエス様を妬み、自分たちの作り上げたルールにのっとってイエス様を十字架に架けようとした。しかし、イエス様には罪はなかった。どんなに彼に関った人たちから証言を得ようとしても得られず、うその証言をする者しか見つからなかった。だから、ローマ帝国打倒を企てているとピラトに言い、またここで暴動が起れば、と脅す事でイエス様を何とか死刑にしようとするのでした。なんという姑息な話。それに偽証自体が彼らの宗教ルールでも違反なんですけどね。

 

まあ裏切ったユダも自分の救い主像に合わない、こんな神などいらないと捨てたわけですからまあ同じといえば同じ。群衆たちの中にも、あくまで自分たちのローマ帝国打倒の王を探していただけで、ないし自分たちの何か問題に答える救い主を求めているだけで、神などという存在を求めていなかったから、だれ一人イエス様の釈放を求める声はなかった。

 

なんという理不尽な裁判だろう。イエス様はどれだけそれは違う!偽証だ、と訴えたかった事だろう。↑のやり取りを見てもそのチャンスは実はいくらでもあった。でもイエス様は他の宗教家の前で黙り、弁明もせず、ただ淡々とその裁判を進めて行った。いやそれだけではない、こんなのやってられるか、と群衆たち、私たちを見捨てて天の御国へと帰っていく事だってできただろう。神様の御子なのだから。しかしそれをされなかった。ただただ黙っておられた

 

私たちが実は本来神様の法廷の前に立ち、私たちの罪ゆえに裁かれなければならなかった。神様を捨て神様から離れ、神様を悲しませ、自分の気に入らなければすぐにイエス様などやはり偽物だと言って当時の群衆のように目に見えない十字架に架け続ける私たちが本来裁かれなければならなかった。ピラトの前ではない、父なる神様の前にしかし、イエス様はその身代りにこれを引き受けられた。全てを黙し、私たちが罰せられるよりも、自身が罰せられ、私たちが釈放されるなら、と願った、だから釈明もせず、ただ黙された

 

ピラトは群衆たちの前に、恩赦から自分たちの英雄である「バラバか」、「イエスか」どちらを釈放してほしいか?と聞いた時、群衆たちはバラバ!と叫んだ。でも、父なる神様の御心は、このイエス様ゆえに私たちの罪を身代りに背負わせ、私たちを罪の奴隷から、この死刑判決、永遠の裁きを受ける身から取り戻す事だった。だから、これを止めなかった。どれだけ神様は御子イエス様を救いたかっただろう。でもされなかった。この群衆の声の背後には「イエスではない、バラバだ、〇〇だ」と父なる神様が叫んでいたのではないだろうか。イエスではなくあなただ、と。御子イエス様のいのちゆえに恩赦の機会を私たちに示された。この御子イエスを十字架に架けあなたの罪を身代りに罰そう、と。

 

私たちが自ら罪人であることを認めない限りは、そんな恩赦なぜ必要?と思うだろう。しかし、私たちが罪人であることを知る時、私たちが神様から断絶されたこの罪の奴隷の中にいる悲しみを知る時、どうして私たちはイエス様の救いを、イエス様による罪の赦し、恩赦を望まないでいられようか。そしてこれを受け入れるとき私たちはバラバのように釈放され、しかも神様の子として迎え入れられるのです

 

最後は私たちは神様の前に問われる。あなたはどうするか?と。あなたはこの救いを受け取っているだろうか?まだならぜひ今日受け取ろう。あなたが自分の罪を悔い改めイエス様の前に立ち帰るなら、イエス様を自分の罪を贖われた救い主として受けれるなら、あなたはもう罪の奴隷ではもない、今日釈放され、神様の子とされる、もう裁かれる事はない。

 

また、この罪の赦しを受けた者として、私たちはいつまでもイエス様を鞭打つような事、十字架に架けるようなことをせず、イエス様を主として従い歩もうではありませんか。自分の都合の良い時に助けるバラバとイエス様を比べるまでもない、私たちは私たちのためなら命さえ惜しまず与えてまで神様と和解させてくださったイエス様が私たちのうちに住まわれているのだから、私たちはこの方に信頼し、従い、新しいいのちの道、うちを歩もうではありませんか。