「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。イエスは言われた。『わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。』そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。『これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。』」
ルカによる福音書22章14-22節
実に誰かがあなたの事を覚えている、というのは力になります。一人暮らしをしている時、私の知らないところで親が色々心配し、時に仕送りをしてくれたり、必要な物を頼みもしないのに贈ってくれたことを覚えているのですが、私のことを自立しているからともう投げ出すのではなく覚えているからこそだったのかな、と。そして、その両親以上にイエス様が、神の御子たるイエス様が私を、あなたを覚えている、この事をぜひ覚えていたい。
さてイエス様が十字架に架かる前夜、イエス様はご自分のお弟子さんたちを招いて最後の晩餐の時を持ちました。晩餐、食事に招くという事はその人を受け入れ、家族ないし仲間として受け入れる、という意味が向こうの文化にはあります。そこにはイエス様を銀貨30枚で売るとわかっているユダも、この後イエス様が逮捕されると態度を翻して、3度イエス様など知らん、と否認するとわかっているペテロも招かれていた。逃げ出す弟子たちも。それはこれまた昨日も書きましたが、極みまで彼らに愛を注ぐために彼らを招かれたのでした。
信じられるだろうか?誰が自分を裏切り売り払おうとしている人間なんて招くだろうか?こんなやつなんて絶対許さない、そう私たちだったら思う。でもイエス様は彼らにご自身の愛を注ぎたかったのです。何を?
それは上の会話の中にあったのですが「イエス様を覚える」ということ。でも最後に教えられたのが(まあ正確にはまだまだ色々教えられたことはあるのですが)ただ「覚えていなさい」何て弱い。でもイエス様はただそれだけをおっしゃらなかったのです。
イエス様は、パンを裂き、またぶどう酒を共にいただきながらご自分がこれからなさろうとしていることを彼らに訴えたのです。でもそれはただのパンを食べてぶどう酒を飲んだわけではない、これは、この裏切るとわかっている人たちのために、この身を裂き血を流そう、と。本来私たちが神様を裏切り、弟子たちのように捨て、こんな者はいらない、と十字架に架けて殺すそのような私たちが本来負わなければならない罪の罰、死を、裁きを身代りに背負おう、そう訴えられたのです。何とありえない話だろう。あり得ない話だ。罪もない、しかも神の御子がなぜそんな私たちのために十字架に架からなければならない?見捨てられたっておかしくない、もうお前たちなど知らない、とそのまま天に帰る事だってできただろう、でもそれをしなかった。
イエス様はただ私たちに「このわたしを覚えていなさい」と言ったのではない。イエス様はむしろこんな私たち一人一人の名を覚えて十字架に登られていったのだ。あなたの罪を背負って行こう、あなたの罪の赦しのために私が父なる神様に懇願しよう、と。イエス様はあなたを覚えて、罪の奴隷に落ち神様と断絶され、滅びゆくしかない私たち一人ひとりを、あなたを覚えて十字架に登る、とこの裏切る弟子たちに向かっておっしゃった、その愛を示されたのです。
イエス様は「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません」とおっしゃった。私たちがこのイエス様の愛を覚え、悔い改め立ち返り、神様の家族に戻される事、何より、やがて私たちが死して後、裁きに向かうのではなく、天の御国で完成されたその食卓に共につくことを願っておられるのです。待っている、だからどうか帰ってきてほしい、と。そのためならわたしのいのちをもって契約を結ぼう、と。
他に救いの手段はない、ただイエス様の十字架による救いの前に私たちが膝を屈め悔い改め、これを受け取る、これだけで私たちは神様と和解させていただき、神様の子として新しい契約、いや本来あるべき真のいのちある親子関係に入れていただけるのです。ここに救いが、いのちがあるんだ。そしてユダを指しながらも、「人の子・イエス様を裏切」り、神様を捨て離れ去ることほど悲しいことはない、と切実に私たちに訴えるのです。
あなたという一人の人を覚えあなたのために罪なき神の御子イエス様のいのちをもってあなたを取り戻された、これ以上の愛はどこにあるだろう?十字架上で、死刑囚が「あなたが御国にいるときはわたしのことを思い出してください」と願った際、悔い改めた彼にイエス様は「わたしとともにあなたはパラダイスにいるよ」とおっしゃられた。その約束通り、あなたをイエス様は覚え、あなたと共に今日もおられる。あなたのためにとりなし祈り、聖霊様をもってあなたを今日も励まし助け導かれるのです。
私たちはイエス様によって結ばれたこの血の契約を忘れてはいけない。いつまでもイエス様に背を向けるのをやめよう。この血によって結ばれた神様との新しい関係の中、歩もう。この契約は私たちが一方的に頑張って頑張って生きる話ではない。神様ご自身があなたのうちに関られる導かれるのです。なぜならイエス様をあなたが捨て殺すのではなく救い主として受け入れるとき、あなたはもう神様の子とされるのだから。いつまで疑いイエス様をいらないと十字架に架け続けるのだろう。私たちは、あなたはこの極みの愛をどう受け止めるだろうか?