「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。『「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。』祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。」
マルコによる福音書11章15-18節
神様のイメージ。そのほとんどは愛の神様、というのが第一に挙がるでしょう。だから神様が何か罰せられるとか、怒られるというイメージが湧かなかったり、神様がそんなことをするはずがない、という。でも神様はロボットのように無感情の神様ではなく喜怒哀楽がある。ある時は涙し、ある時は怒る(聖なる怒りですがね)ことだってある。喜ぶものとともに喜び悲しむ者と共に悲しむ。神様は喜怒哀楽のある神様なんだ。
みなさんは、上の話を初めて読まれる方は驚くだろう。イエス様が怒る?愛の神様が何で?と思うかもしれない。しかしあったのです。イエス様が十字架に架かろうとしている数日前のこと。イエス様はエルサレムというところにつくと、宮に向かわれた。まあそこで神様に祈りをささげたりしている場所。時にはそこで私たちでいうなら聖書を開いたり。まあそこにはイエス様を十字架に架けて殺したい、とねたんでいる宗教家たちも待ち構えてはいたのですが。
他の箇所ではこの神殿で見の見えない人や足の不自由な人を癒されたところを見ると、イエス様は最後までその愛を惜しみなく注ぐために来られたのでしょうね。
ところが、この神殿には商売人たちがいたのでした。え?商売してはいけないの?イエス様の活動の邪魔をしていたから?違う。彼らは神様を求め、救いを乞い願い礼拝しようとする人たちの邪魔をしていたのです。彼らが持ってきたいけにえを傷つけたり、必要以上に金銭を要求したり、神様の愛を捻じ曲げていた。また外国の人たちが唯一ここでなら礼拝をしていいよ、お祈りしていいよ、という場所を彼らが奪い、彼らの神様を求める思いを妨げた、そのことをイエス様はお怒りになっていたのです。事もあろうにそれをしていたのは、なんと神に仕える者たちだった…ここで涙を流されたとは書いていませんがどれだけ悲しみの涙をもって怒られたのだろう…
イエス様が怒られるには理由がある。まあ一つは上の宗教家たちの、神様を信じると言いながらその神様の愛を妨げようとする事。まあ私たちもこれは本当に注意しなければいけない、悔い改めなければ、神様を愛しているつもりでいて隣人との関係、神様との関係を捻じ曲げていないか、いつも吟味しなければいけない。
でももう一つ大事な理由がある。それは、イエス様はそもそも、私たちの罪を身代りに背負い十字架に架かられ、私たちが本来負わなければいけない刑罰、死、永遠の裁きから救い出し、神様の元に引き戻し、神様と和解させようと今このエルサレムに来られているのです。イエス様の怒りは、この罪が私たちの内側に支配しているこの事を悲しみの涙を持って怒り、追い出そうとしているのです。
ここで騒ぎ立てなければ宗教家たちから逃れられる、そんなことよりも、私たちのうちを支配するこの罪、神様の愛を疑って別な方向で満たそうとする思い、神様を追い出し自分を神としている罪…その罪によって神様との関係が捻じれてしまっていることを我慢できないのです。こんなことをしなければ、おお、イエスも話せばわかるかもしれない、と思われたかもしれない。でも、イエス様は私たちのうちに巣食うどうしようもない罪を自らのいのちをもって追い出し、罪の呪いも悲しみも全部追い出し、打ち勝ち、あなたを本来ある姿に、本来の宮に取り戻すべく、祈りの家と呼ばれる程に神様のいのちに溢れたあなたとするために、イエス様はその歩みを止めなかった。妥協せず、罪を憎み私たちの代わりに十字架に背負い、これに打ち勝ってくださったのです。この愛ゆえの怒りだったのです。
イエス様は神様と断絶されいのちを失い滅びゆくしかないあなたを悲しみ、罪を憎みこれを討ち滅ぼすためなら、とあなたの代わりに十字架に足を止めることなく進まれていく。神様とのねじ曲がってしまった関係を修復すべく。イエス様がこれだけ罪を憎まれたのは、あなたがどうでもいいからならされない。勝手にしろ、と見放す事だってできる。それでもいのちを賭してあなたを救おうとされたのは、あなたが滅びゆかないでほしい、神様の元に帰り永遠のいのちを得てほしい、そう願われてのこと。イエス様は願わくば一人も滅びることなく永遠のいのちを得てほしい。神様と和解してほしい、そう願われたのだ。いつまでも神様から離れていないで帰っておいで、と。
あなたはこのイエス様の聖なる義憤、怒りをどう受け止めるだろう?悲しみの涙を流しながら怒られたこのイエス様の十字架を私たちはどう見るだろう?受け入れるだろう?あなたがイエス様の十字架の前に悔い改めるなら、神様とのねじ曲がった関係は、死にゆくべき罪の奴隷の私たちは罪赦され、神様の子とされ、本来あるべき関係へと回復される。神様のいのちがあなたのうちに、神様の地にはない点にある全ての霊的な祝福をもってあなたを導かれる。順境の時も逆境の時も、世の終わりまで。
ご自分のいのちを賭してまでもあなたの罪、死を打ち砕かれたイエス様の前に私たちは今日、何を求めるだろう?この新しくされたあなた、宮としてどう生きるだろう?