ー神様に並ぶものはないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エシュルン(イスラエルであり、私たち)よ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」

申命記3326-29

 

神様に並ぶものはない。神様はただお一人。その神様こそ私たちの助け、膝を屈めるべき方。

 

上のことばは、昔モーセという人が神様によって奴隷としてとらえられていたエジプトから救い出されたイスラエルの民を神様に助けられ導きだし、彼は残念ながら神様の約束された地に入ることはできなかったのですが、これから入っていくイスラエルの民に、遺言として残して言ったメッセージ、その一部が上のことばなわけです。

 

彼らが与えられた地には、様々な戦い、困難がありました。私たちの生涯もそうですよね。でも、モーセは、彼らが、また私たちが誰により頼むべきなのかを訴えたのです。

 

私たちは神様を、そこいらにある偶像、仏像、パワースポットだの占いだの思想だの、そうした、こう、満たすもの?救うための手段?そうした選択肢の一つと考える。ないし特に日本の特性からか、八百万の神の一つ的に考える。どれか今自分の合うものを選択し、それに助けてもらおう、と。

 

でも、真の神様に並ぶものはない。いや、そもそも他に神など存在はしないのだ。比べるも何も選ぶも何も、あなたを救える方は他にはいない。この天地万物を造られ今もすべ治められる神様、あなたを造られた神様のほかにはいないのです。

 

まあ確かに、偶像や仏像はともかく友や何か知識のある本は多少はあなたを助けてはくれるかもしれない、しかしそれは人間のできる範囲は超えない。

 

でも、神様は比べて選ぶようなものではないんです。神様は何もしないと疑って他の物と同等に引き下げるようなものではない。神様は、あなたのためにご自分のひとり子なる神の御子キリスト様を私たちを救うために、あのエジプトの暗闇から、私たちの罪の世界から、呪いから、その刑罰から、神様との断絶されたいのちのないこの希望のない闇から、あなたを救うために、私たちの支払うべき刑罰・死を身代りにおってくださったのです。そこまでしてでもあなたを友と呼び、救おう、取り戻そうとされたのです。友のために命を捨てる、これ以上大きな愛はない。神様はどこか上の方で鎮座して何もしない方ではない、上から降りてきて最も低くなられた、貧しい家系に生まれ、神であられるのに最も弱い人、その中の最も弱い赤ちゃんとなってまで、ご自身を低くされた。神様の愛が届かないところはないのです。神様は下って来られてでもあなたを下から支えられた。

 

まあ上の話は多少再臨の要素もあるでしょうが。それはまた別な機会にするとして、神様はご自身を求め近づいてくる人を、悔い改め救いを求めに来る人を決して拒まれない。あなたがイエス様の救いを求め悔い改めるならあなたは神様の子とされる。イエス様の十字架によって結ばれた神様とあなたの関係において神様は共に歩まれ、あなたの楯となられ、勝利の剣となってくださる。最後は私たちの背負う死もサタンも打ち砕かれる。サタンも神様の前には何もすることはできない。死も剣も裸迫害…そうした物もあなたを仇なすことはできない。

 

それはこの先にイスラエルの民のように様々な戦いもある。でもその中にあって神様があなたのうちに住まわれ、上の約束を果たされるのです。どこかに鎮座して終わりじゃない。あなたと共に世の終わりまでいつまでもおられるのです。その救いの御手は永遠にあなたと共にある。

あなたの罪の代わりにそのいのちまで投げ出せる方が他にいるだろうか。いない。私たちはもう選択肢の一つとして、オプションとして神様を見るのはやめよう。ただ唯一なる神様、あなたのためにご自分のいのちさえ惜しまずささげられたイエスさまだけを見上げ、歩もうではありませんか。

 

真の神様に並ぶものなし。神様はただお一人。その神様こそ私たちの助け、膝を屈めるべき方。この神様をあなたの神様として今日も明日も歩もう。