ーまだ「神様の愛する」民がいるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」

使徒の働き189-11

 

神様は願わくば一人でも多くの人が神様の元に帰ってほしい、と願われている。ある箇所では「神様は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世・私たちを愛された。それは御子を信じるものがひとりとして滅びることなく永遠のいのちをもつためである」とあります。願わくば一人として滅びてほしくない…

 

上の言葉の時代、クリスチャンたちは多くの迫害下にありました。何より、神様の愛を伝えるために遣わされたパウロという人にさえ、人々の中には彼を「襲って、危害を加え」られてもおかしくないような状況下にあったのでした。なんで救いの道を神様が、その愛を存分にパウロを通して注ごうとし知恵るのに、その愛を退ける人たちを救わなければいけない、もうこの人たちを捨てよう!神様にそう宣言されてもおかしくない状況でした。

 

しかし神様はパウロにこういうのです。「この町には、わたし(神様)の民がたくさんいるから」語り続けてくれ、その救いの道を、愛を閉ざさないでくれ、そう訴えるのです。願わくば彼らも神様にとっては大切な子だから、帰ってきてほしい、そう願っていたのです。何という深い愛だろう。神様の愛は。

 

まあこのパウロという人張本人も、実はキリスト教徒を迫害し、殺そうとしていた張本人。神様からしたらこんな男、赦さない!絶対に天国に入れてやるか!そう人だったら思うような人物だった。でも神様はそれでも彼が救われる事を願われ、直接彼が迫害していたイエス様が彼に訴えかけ、悔い改め、救いに招かれたんですけどね。

 

神様は、私たちへの愛はまだ止めていない。救いの御手はひっこめられていない。こんな見捨てられてもおかしくない町に、人達にさえ、「まだわたしの民が」と訴えるのです。あのイエス様を3度にまでわたって否定し呪ってまで逃げたペテロ、迫害者パウロにさえその愛を示された。

 

その愛の手が、神様を神様として認めず、自分の思う時に望むままにかなえる神を捜し求め離れていった私たちにさえその愛を示されたその御手が、まだひっこめられていないのです。そのあなたを見捨てられないから、神様はご自分の御子イエス様をあなたの罪の身代わりに、あなたの重荷も何もかも、本来私たちが背負わなければならない罰・死を身代りに引き受けられたのです。そこまでしてでも、私たちが神様のいのちを失い、死にゆくことを我慢できなかった。パウロどころじゃない。殺されそうになっても黙る事無く、十字架上に至るまで黙る事無くその愛を示され、イエス様を十字架に架けた群衆、ローマ兵、弟子たち、いや私たちの赦しを神様に乞い願ったのです。「父よ、彼らをお赦しください」と。

 

そこまでしてでも愛された神様の御手が今日もあなたの上にある事を覚え、また感謝し信頼しよう。その御手があなたをパウロを守られたその御手が今日もあなたの上にあり、導かれ、養われる事を覚えよう。神様に腰を据え、そのみことばをしっかり心に握りしめ、歩もうではありませんか。あなたへの神様の愛の御手は今日もあなたと共にあるから。あなたの苦難の日も。