ーもっと神様に期待するー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。―万軍の主は仰せられる―すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。」

マラキ書310-12

 

神様は私たちを幸せ者と言われるようにしたいと思っている。不幸にしたいわけではない。これ、何という嬉しい話だろう。神様、あなたはなぜ私の願いを聴かないの?なぜ私がこんな状況にいるのに黙っているの?と嘆き、神様に恨み節を言うことも私たちにはあるけど、でも神様の本音は上にある通り。当時、これを語られた人たちはうわべだけの神様との関係で、とても上の言葉を頂戴するに値するような人たちではなかった。でも、これが神様の思いなのです。

 

まあ上の話は、よくクリスチャンに向けた、十一献金と呼ばれることについて説明するために取り上げられる箇所なのですが、今回はその話ではなく、ちょっと視点を変えてみると。

 

上の十分の一、というのはそれぞれの収穫に応じた、収入に応じた十分の一なのですが、もっと純粋に考えて、私たちの小さな信仰でもいいでしょう、あなたの思いでもいいでしょう、あなた自身でもいいでしょう。もっと神様に私たちは期待したいものです。先にも申しましたように、神様は私たちを幸せ者と呼ばれるようにしたいのです。

 

そのために神様は、神様から離れ心身ともに疲れ果て、心も魂までもが貧しくなってしまった。神様のいのちをうしない、祝福を失い、本来神様からいただく祝福の中、いのちの中歩むはずがその源を失い、枯れ行き滅んでいくしかなかった。何という不幸な話。しかし、神様はその私たちを見捨てる事は出来なかったのです。だから、ご自分の御子イエス様を人として私たちのところに遣わしてくださった。そして、一人ひとりを訪問して行った。見捨てられた人、ついには死刑囚の横、どころか死刑を執行中の人の横に死刑囚として行かれた。そして、死んで陰府にまで下られた。私たちの罪を背負い、私たちの身代わりに。そして神様はこの罰を良しとして受け入れ、イエス様をよみがえらせ、イエス様との断絶された関係の修復とともに、信じる私たちと神様の関係をも修復し、真の親子関係を回復してくださったのです。神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

私たちが神様の子とされる、御子イエス様のいのちという代価を支払ってまで。あなたは、私たちは何という幸せ者なのだろう。周りの状況的にあれこれ言われようが、悲しみの状況にあろうが、あなたは御子イエス様のいのちという代価をもって取り戻され神様の子とされた幸せ者なんですよ?私たちはこのアイデンティティを忘れてはいけない。

 

だから私たちはたとえ小さな者であっても、大胆に神様に期待しよう。もっともっと期待しよう。御子イエス様のゆえに、天の窓を開きあなたを豊かに祝福されるから。それは世の価値観での幸せとは違うかもしれない、でもあなたを神様は養い、導いてくださる、あなたのために御子イエスさまさえ惜しまず死に渡される決断をされた神様が。

 

今日、悔い改め神様に立ち返り、神様と共に歩もう。あなたを幸せ者と、御子イエス様ゆえにしてくださる神様に今日という日を、この瞬間瞬間を期待しようではありませんか。あなたのその十分の一だろうが何だろうが、大きかろうが小さかろうが、献げるあなたの決断を神様は喜ばれ答えてくださるから。