「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」
マルコによる福音書2章16‐17節
今から約2000年ほど前、神の御子たるイエス様は、人となって私たちのところに来られ、人として生き、私たちの間に住まわれました。でもどこかに定住するというわけではなく、公の活動が始まると、あちらこちらを訪問して行きました。いや、イエス様の所に人が訪問していくなら分かりますよ?まあもちろんイエス様を探しに来た、救いを求めに来た人たちもたくさんいたのですが、基本イエス様は行動、「枕するところなし」と書き記される程駆けずり回られました。どこかの動かない銅像とかとはわけが違う。運んでもらわなければ、来てもらうだけのものとはわけが違う。
その訪問された人は様々。社会的に見捨てられた、蔑まれているような人、何か罪を犯したからそんな病になったんだ、と周りから追い込まれているような人、差別されている人、死刑囚、宗教的指導者、また救いを求める議員さんなどなど。
イエス様にとって行けない場所はないし、会う相手も決して選ぶわけではなかったのがほんとうによく分かりますよね。イエス様は、失われた、神様から離れてしまった一人一人の声を聴き、探しに来られたのでした。これがイエス様。
上のことばを見ると、医者ではないから癒さない、とかそういう風に聞こえるけどそうじゃない、イエス様は病も癒された、それぞれの必要に主は応えて行かれたのです。そうなんです、イエス様は私たち一人一人の具体的な必要、今必要なものをご存知でその必要な時に必要に応えてくださる。
でもイエス様はそこで終わらせるわけではなかった。いや、誰か困っている人を助けるためだけなら、わざわざ人となって生まれ、生きる必要なんてない、時々誰か困っている人を見つけたら、上から来て、ちょちょいと助けて帰って行けばいい。でも、そうじゃない。本来神様と私たちの関係は、罪ゆえに、私たちが神様を捨ててしまった故に断絶されてしまい、イエス様の愛なんて受ける資格はない、でもイエス様ご自身が私たちのところにまず来られ、私たちにとって最も必要な「罪の赦しによる神様との関係の回復・癒し」のために来られたのです。私たちにとって最も必要な癒し、神様との和解をなされるために来られたのです。
イエス様はそのためならどこにでも行かれた。殺される可能性があるとわかっていてもそこをそのタイミングで訪問される事もあったし、死刑囚の横にまで、自らが無実であるにもかかわらず死刑囚となって十字架に上られた。そして、私たちの罪を身代りに背負って死なれ、死の底にまで下って行かれた。そうして私たちの救いの道を示されたのです。和解を成し遂げてくださったのです。これを信じる者と神様との間に。
イエス様は、そう、一時的な救いのために来られたのではない、また赦して終わり、後は自分の力で頑張って生きれば?あなたは私に逆らったんだから、今回は赦してあげるが、もう救ってやったし後は好きにしな、とは言わなかった。むしろ、「イエス様と私たちがその食卓を共に囲む」、神様の家族にそうして加えてくださった。その関係に招き入れてくださったのです。
私たちは神様との関係、死んでいませんか?
赦されて、はい終わり、に「自分で」していませんか?イエス様はむしろ、あなたの内に生きていのちで満たしたい、養いたい、そう願い、ご自身の元に招かれているのです。私が養おう、わたしが導こう、とその食卓に。イエス様は十字架で赦して終わりではなく、その先の神様と共に生きるその恵みの関係に、食卓にあなたを招かれているのです。私たちはこのいのちの食卓に今日も招かれている。あなたはこの招きにどう答えますか?