ーことばなる神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。…すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

ヨハネによる福音書1114

 

今から約2000年ほど前にこの地上に来られた神の御子イエスキリスト。イエス様は歴史の教科書にもその存在が認められ、記載されていますが、かなり多くの目撃者が、またともに歩んだ人たちがいました。その中でイエス様の最も身近にいた一人、12弟子の一人のヨハネという人はこのイエス様とおおよそ3年間ともに歩んだ中で、イエス様のことを「ことば」と表現しました。

 

一般的なイメージでは、神、というと語らず黙っていて、どこかに安置されているだけで何もできない物、となる。自分たちで作ってそれを勝手に神に祀り上げて(別に仏像的なものではなくても)、語られないのに、何となく精神的に触れられたような「気が」して、また頑張る。はてその関係の中に一体どこに神はいるのだろう?全く介入も、存在さえしていない。もしくは宗教的に、教えとか戒律はあっても、神的な者は何もやはり語らない…

 

でもずっと一緒にいたヨハネはイエス様はそうではなかった、というのです。神様は語られる神、でもどこか遠くに鎮座してあれこれ偉そうにあれしろ、これしろ、口先だけ君を愛しているよ、というだけではなかった、と。聖書の中に有名な言葉で、「わたし(神様)の目にはあなたは高価で尊い。わたし(神様)はあなたを愛している」という言葉があるのですが、それを口だけで言うことはだれでもできる。そうでしょ?あなたの大切な人に、「愛しているよ~君は~のようだ~」ということはできる。でも、その口で言うことを実行に神様は移された、というのです。

 

そう、神様は言ったことを言いっぱなしにしない。言い放ったことを無駄に帰ってくるようなことはなさらないのです。だから、私たちが神様から離れてしまったがために罪の中に閉じ込められ、苦しみ、神様を見出せずに希望を失っている、その姿を見捨てることができずに、ご自分のひとり子なる御子イエス様を今から約2000年前に私たちに与えて下さった。しかも、何かスーパーマンのような存在としてではなく、最も弱い赤ちゃんとして、最も身近なところに来られたのです。神の御子だから王宮に生まれて育ったのかと思ったら、貧しい大工の家に。その暗闇の中にイエス様は来られ光を照らされ、一緒に住み、一緒に生きられたのです。失われた羊を「探し求め」、会いに行かれた。暗闇の中にいる人たちに光をともしに、神様の愛を示された。「愛の約束」を行動に現された。

 

そして、その究極の愛の形として私たちの罪を、悲しみも痛みも病も全部ひっくるめて身代わりに背負われ、十字架に架かられた。愛しているから、見捨てられないから、このままあなたが罪故に滅びゆくのは我慢できない。ならば、と。そして自らその刑罰を負うことによって私たちの負うべき罰、死、裁き、痛み、悲しみ、病、全部を打ち砕かれた。その打ち傷によって。そのいのちによって。そして、救い主として信じる人に「神様の子としての特権」を与えるために。これこそ、イエス様が私たちを「愛している」そのことばのカタチなのです。

 

イエス様が来られてもほとんどの人はイエス様を受け入れなかった。自分の必要さえかなえればあとは要はなし、むしろ自分の望むとおりのことをしない彼など救い主ではない、と拒絶した。弟子たちも裏切ったし、散々愛を注ぎ、また癒した群衆たちにさえ見捨てられた。でもイエス様はその愛を注ぐことをやめなかった。ご自身のいのちを十字架にかけても、それでもあなたの罪が赦され、神様の元に帰るなら、それこそ幸い、と愛することをやめなかった。彼らが、あなたが帰ってきて、いのちを受けるなら、と。

 

イエス様はおしえと戒律で私たちを縛り付けるわけではない、むしろ私たちを「愛している」ということばを実行に移し、あなたを縛り付ける罪、悲しみ、闇から解き放ち、光をともし、そのいのちで満たすために来られたのです。失われた、断絶された神様との関係を取り戻すために。

 

私たちはイエス様を「クリスマスの象徴」に閉じ込めてはいけない。私たちはこのイエス様の愛を、救いをいただき、またこれに生きましょう。イエス様はあなたの内に愛を現したい、その愛を形として具体的に現したい、とあなたに語り続け、またその声を私たちが聞き、また従うのを待っておられる。ご自身のいのちさえ惜しまず与えられる方、「ことば」なるイエス様。私たちは今日もう一度この方のもとに帰ろう。良き知らせを聞いて駆け付けた羊飼いのごとく、東方の博士たちのごとく。