ーその日その日に備えられるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。』マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。」

民数記1148

 

この出来事は、昔イスラエルの民がエジプトに奴隷としてとらえられ、神様が直接的に彼らを連れ出し、また紅海を割って彼らをとらえていた者たちを打ち破り、神様が用意された、約束されていた土地に連れていく、その道中で話。

 

当時は(紀元前も紀元前千数百年ですから)今と違って少し歩けばコンビニとかスーパー、ファミレスとかがある時代ではないし、何よりそこは荒野。水も食料も簡単に手に入るものではない。何だ?じゃあ救われた後は自分たちで頑張れ、耐えて耐えて耐え抜け、とでも言いたいのか?とイスラエルの民たちも、食料、水、平安を求めていました。そんな不平不満を言う彼らのために神様は毎日(安息日と呼ばれる日の前は2日分)、その日その日に彼らに必要な分の食糧・マナというものを備えてくださりました。上を見る限り、どうも美味しかったようですね。

ちなみに彼らの旅路の40年近く、その旅が終わるまで履き物が擦り切れることがなかったと、衣食住すべて神様は何もない中で守られたようです。私たちにも神様は、当たり前と思っているようで、毎日衣食住を備えて下さっているんですよ?

 

ところが、最初は美味しい美味しいと言って喜んで食べていたのですが、だんだんその味に飽きてきたのか、上のような不満を漏らすようになりました。何もないところに神様が生きるすべを与え備えてくださっているのに、それが当たり前になって、これは私の今欲しい、満足するものではない、となってきたわけです。そもそもの話が、奴隷状態でそんなまともな食料にタダで預かれるわけがないし、仮に食べられていたとしても、地獄のような苦しみの労働の中で与えられる程度のもの。その中から救い出され、神様の民に入れられたことを忘れてしまったのです。

 

実はこの話は昔話では終わらない、私たちにも関係のある話なんです。神様が下さる、示された道に歩むとき、最初は喜んでいても、自分の求めるものではなくなった時に、これに不平不満を言い始める…もっとああしてほしい、これほしい、と。神様が今置かれている状態に満足しないなんて状況になりやすい。

 

もちろん神様は私たちに必要なすべてを与えてくださります。だってあなたは神様がお造りになった大切な最高傑作!それゆえに、あなたの罪の身代りのために、あなたをイスラエルの民が奴隷という絶望の中から救い出した神様が、御子イエス様によってあなたを同様にその絶望、罪とし、絶望の中から救い出した、そのいのちをもって罰を支払い、買い戻されたのですから。あなたがこれを信じたらもう神様の子なんですよ?

 

その神様があなたに、今日という日を備えていてくださっている。今日あなたが置かれている場所に神様が置かれたのです。別に質素に生きましょう、と言いたいわけではなく(まあ無駄遣いはともかく)、神様が与えてくださったものを、それは違うんだよな~導かれたところを、私が望むことはそれではない、と別なものを求める前に、私たちは神様が下さっているものに満足する、いやその状況を、場所を、その日を、いやこのいのちを、もっと味わい尽くす事の必要を思うわけです。だってすべては神様が御子イエス様の十字架ゆえに新しくされたあなたですから。

 

こんな刺激も何もない日、場所、ではなく、この事を覚える時、私たちは神様の下さっている恵みにもっと気づくようになる…マナを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作ったように、これを突っぱねるのではなく、もっとこの神様が与えてくださっているものを楽しみたいものです。これをどう食べるか。神様のために?隣人のために?自分のために?その料理方法は、楽しみ方はあなた次第。いずれにしても「神様のために」その日を捧げるなら、神様がそれに豊かなスパイスを与えてくださるでしょう。

 

今日という日は、イエス様が十字架に架かられ死なれ、また復活なされたことによって、神様の子としてのあなたに与えられた 日。もちろん楽な日ばかりではないかもしれませんが、神様が備えられた日なのだから神様はそこにおられる。だから私たちはこのアイデンティティをしっかり持ち、神様の前に静まり、神様を慕い求め、もっともっと神様の恵みを味わい、御国に行く日まで神様とともに歩みたいものです。