「あなたは終わりまで歩み、休みには入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」
ダニエル書12章13節
この言葉はダニエルさんという預言者に、いやダニエルさん本人に神様が語られた言葉。この世の最後についてダニエルさんに神様が語っていくわけですが、彼の生きている時にはそれは起こらない、でもどうしてもあなたに、と語ったのが上の言葉。
ダニエルさんという人は捕囚の地で何度も死にそうな目に会いました。ある時は獅子の穴に投げ込まれたこともありました。捕囚された奴隷であったにもかかわらず、彼は腐ることなく神様に頼り、高い地位に引き上げられ、王たちさえも彼に信頼を置くほどにまでなりました。こんな捕囚地に、絶望の中に何があろうか、何が神だ、と思いたくなるそのような絶望の中にあっても神様はそこにまでくだって来られた。み使いを遣わされた。燃える炉の中に投げ込まれた時(まあこれは彼の友たちの話ですが)には神様ご自身がその中に入って守られた…そこまでしても神様にとって彼は大切な一人の人だったから。何かが特別優れていたからではない、彼を愛していたから。
へ~すごいね~、と話を終わらせる人もいるかもしれませんが、実は彼がただ守られただけではなかったのです。その彼の信仰、神様に従うその姿、決断を通して、王を悔い改めに導いたこともあれば、捕囚の地の中にあって失意、落胆の中にある人たちに神様の希望を伝えることとなったのでした。
だから、あなたはこの先もやはりいろんなことがあるでしょう。明日何があるかもわからない、順境の日もあれば逆境の日もあるだろう、それでもあなたはあなたの与えられた役割を忠実に、これから年を重ねても、あなたができることを忠実に、神様に仕え、その愛を現していくことを勧めたのでした。その中に、若かろうと、年を重ねていこうと、神様ご自身を現される事、そして生きている間だけではない、死して後もあなたを御国で迎えるから、その日を楽しみにその日まで一日一日歩むように、と。
私たちにも、ダニエルさんと立場は違えども、神様がこのいのち、生涯を与えてくださりました。神様がくださったこのいのちですから、神様はあなたの内にご自身の愛を現したい、と願っておられる。その愛の証拠として、獅子の口、燃える炉のなかという死ぬしかない、悲しみの中にいる、罪に捕らわれた私たちを救うために下って来られ、御子イエス様をあなたの罪の身代りに十字架上で罰し、死なせ、神様と私たちのの断絶された関係を修復された。それほどまでに愛し、取り戻したあなたの新しい生涯は神様によって保障されている、天国に行ってからではない、あなたがイエス様を救い主として信じ受け入れたその時からこの保証は始まっている。主があなたと共に歩まれ、天の御国にまで、いや死して後も。
あなたは今獅子の口、燃える炉の中という絶望の中にいるだろうか?イエス様はあなたを救うためにそのどん底にまで来られ、あなたの罪もその絶望もすべて背負われ救いたいと立っている。この救いを受け取るだろうか?あなたがイエス様の救いをいただくなら、主があなたをそこから引きあげ、新しいいのちの道へ、神様の子される…神様があなたの真の父となり養い導かれるその新しい日が。
そして救い出された今、私たちはどう歩みましょう?私たちの、あなたの与えられた役割は、この愛をいただいた私たちはどう生きるだろう?若かろうが何才だろうが関係ない、私たちはダニエルさんではないので役割は違いますが、あなたが神様に信頼し歩むとき、その日が殉教の日であっても逆境の日であっても、神様があなたの内に働かれ、ダニエルのその決断を通して王たちが悔い改め、絶望の底にいる人たちに希望を与えたように、私たちの思う事をはるかに超える何かがそこに起こる。
神様は「終わりの日まで・この地上の生涯を閉じるその日まで」「歩む」ように勧めます。あなたはその日まで、いや、今日を、明日を、…どう歩みますか?何を期待しますか?