ーためらわない神様とためらわない関係をー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたの豊かな産物と、あふれる酒との捧げものを遅らせてはならない(正確には「ためらってはならない」)。」

出エジプト記2229

 

聖書の中には色んな律法があるのですが、どうも新約聖書に登場する律法学者のイメージから悪いものと思われてしまうのですが、そういうわけではないんですね。非常に知恵の満ちた者が多いんです。人の尊厳や財産を守ったり弱者救済とか、まさに神様の愛を、隅々にまで行き届かせる、その器ともなるわけですね(;^_^Aイエス様も、この最も小さなものにしたことは、わたしにしたことです、とその愛の実践を願っているわけですし。

 

まあ話は戻して、神様は自分の持っている産物を捧げることを「ためらわないように」、と私たちに勧めています(遅らせてはならない、という言葉は正確にはためらってはならない、の意)。裏を返したら、わたしが必要を必ず満たす、という約束でもありますね。でも、勧めるからには神様自身それをなさります。

 

神様は、私たちに惜しまず最善のものをためらわず与えてくださります。あなたにとってそれが良くない道だった時はためらわず止めに入ります。例えば、弟に嫉妬した兄が怒り狂っている時に、このままではあなたは罪を犯すことになるから、足を止めて自分の内側をよく見なさい、と声をかけられたこともありますし。神様なんかいらない、私は私の好きなように生きるという私たち、他に喜びがあるに違いないと別な神を求める私たちを見捨てることができず、それでも神様は日々そのご愛を示し、私たちが生きるに必要なあらゆるものを、そんな身勝手なものにさえためらわず与えられる(雨、日差し、空気、生きるに必要な衣食住、その他諸々、見回してみれば当たり前と思う者が与えられていることに気づくでしょう)。

 

でも、それでも私たちが神様のもとに帰らず、逆らい離れ続ける私たちに神様は業を煮やして愛することをためらい辞めたか?いやむしろ、ご自分の御子イエスさまさえ「ためらわず」与え、神様から離れている人たちのところに、社会から見捨てられている人のところに、感染症の恐れのある人のところにさえためらうことなく訪れ、愛を注がれた。そして、それでもイエス様を裏切った者たち、また死刑囚のためにさえ、ためらわず彼らの救いのために祈られた。どうか彼らを赦して下さい、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです、と。そして、自分で降りることもしようと思えばできたにもかかわらず、ためらわずその命を神様の御手にお渡しし、私たちの罪の身代わりにすべてを背負われ十字架で死なれた。私たちが悔い改め神様のもとに帰り、神の子としての祝福をいただき、永遠のいのちをいただくのであれば、構わない、と。

 

御子イエスさまさえあなたのためにためらわず十字架にかけ死なせる選択さえできる神様がどうしてあなたの必要にためらわず応えないはずがありますか。見捨てるという選択ができるでしょう。もうあの十字架によるゆるしは無効だ、と取り下げることも神様はまだしない。その終わりの時まで神様はあなたが帰るのを待ち続けている。

 

ならば私たちはためらわず神様のもとに帰ろうではありませんか。そして神様との関係をためらうことなく、しっかりと結び、神様と共に生きよう。主のことばにためらうことなくまず従ってみよう。主はあなたに応えてくださる。あなたの応答という産物を神様に捧げましょう。そしてなお、その持っている産物をもって隣人に仕えようではありませんか。そこに神様はいのちの実りを増し加えてくださるから。