「主はこう仰せられる。『あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたがたを売ったというのなら。見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。』神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」
イザヤ書50章1-9節
イエス様の愛は一貫している。私たちが、あなたがいのちを得るためなら、いのちだって投げ出された。裏切者たちを目の前にしても、最後まで十字架から降りる事を辞めず、最後までの私たちの罰の身代わりとなる事を辞めなかった。あなたがいのちを得るために。このいのちがけの愛に私たちはどう、今日応えるだろうか。
さて、↑は預言者という、神様のことばを預かりそのまま語る人の一人、イザヤを通して神様が語られたことばです。裏を返すなら、偽預言者はともかくとして基本預言者は、神様のことばをいじる事はありません。↑にあるのはまさに神様の思いそのものなのです。そしてここにこそ神様の愛が示されているのです。
この預言が語られた当時、イスラエルは神様を捨て自分勝手に生きていた、自らを神としたり、自分の都合の良い物を与えるものを神としたり。神様がイスラエルを建て上げた、その御心のままに納め、守り、養い、導かれていたのに、彼らは神様を捨てたのでした。そんな神様の守りを彼らが拒否した故に結局これまで神様が守っていた敵からの攻撃によってついにバビロンに捕囚されていくわけですが。
そんな中でイザヤを通して神様は彼らを捨ててはいない、と訴えるのです。離婚状はどこにあるのか?と。ちなみにイスラエルでは、離婚状があればそれ一枚で離婚が成立するのですが、これが無ければ別居状態、とみなすそうです。神様は離婚状を突きつけなかった。それは彼らを復縁のため、助け出す、その意思をまさに示していたのです。見捨てるなら、離婚状を突きつける、でもそんなものを私は出していない、と訴えるのです。
私たちはとかく勘違いしやすい。神様は自分に何もしてくれない、何も良い物を与えない、私が困っている時あなたは何をしているのか?と。しかし神様は↑で預言を通して語られたように、神様は私たちに語られる神様なのです。↑をもう一度読み返すと、更にこうあります。「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか」と。
神様は、私たちのところに来られ、またよばれ、語られる。でも、神様が語られている事に私たちが、それは私の思うところとは違う、と聞こうとしなかったり、あなたはわたしの主ではない、とその言葉自体を受け入れず拒否する。ないし、この問題には神は応えられないだろう、と最初から信頼しない。でも、神様は誠実にその愛を尽くされるのです。その手を伸ばされ、御目をあなたに向けられている。かつてイスラエルがエジプトに奴隷として捕らえられていた時、救い出すために海を真っ二つに割ったり、エジプトに大いなる裁きを降して救い出したり…具体的に神様は動かれるのです。
私たちは神様から離れた結果、「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」とあるように、世に傷つけられ、苦しめられ、悩み苦しむ。サタンの手に縛られ侮辱され。ある意味神様を捨てたなら神様から見放されても自業自得なはずなのです。イスラエルの民も、結果バビロンに捕囚され、そのようになって行った。
しかし、神様は彼らを捨てず、その捕囚の地にあっても神様の御手を置き、同じように預言者を置いたり、神様が助け人を捕囚地に置かれ、迫害から守られるように助け続けた。ユダヤ・イスラエル民族滅亡の危機においても助け人を置き、ついには捕囚からの解放のため、異国の王に働きかけ、ペルシャ帝国を通してイスラエルを解放させた。確かに離婚状は出されていなかったのです。
同じように、私たちをこの罪の束縛、呪い、世の煩い、悲しみ、苦しみを一切身代りに神の御子イエス様に背負わせることによって、私たちを罪の奴隷、死刑囚から、神様から捨てられた死刑囚から釈放されたのです。イエス様は神の御子であられ、罪も何もない方。むしろ人々にその愛を届け、多くの奇跡を行われ、癒され、励まされ、慰められ、寄り添われた。
どうしてこの方が私たちの罪の身代わりにならなければならないのか?しかし、それでも、どれだけ嘲られ、ののしられ、鞭を打たれても、やり返す事はなかった。それは、私たちが本来神様から受け、罰せられなければならない者であり、私たちの持つ哀しみ、痛み、傷、呪い、一切を身代りに背負い引き受けるためなのです。途中で辞めなかった。あなたの重荷を全部その身に負われたのです。このままあなたが神様から見捨てられていく事が我慢できない、なら私が代わりに神様から捨てられ十字架で罰を受け、死のう、と最後の最後まで十字架から降りる事なく死なれた。目の前でどんなに罵られようとも、裏切者を目の前にしても。呪いのことばを彼らに架けることなく最後までその身に私たちの痛みを引き受けられた。罪を引き受けられ、罰せられた。
しかし、神様とイエス様の断絶は、神様がイエス様を復活させることによって解かれた。そのことによって、私たちが自分の罪を認めこの十字架の前に悔い改める、イエス様を救い主として信じ受け入れるなら、同様に私たちも神様との断絶、別居を解かれる、離婚状は取り下げられるのです。そしてあなたは神様の子として迎え入れられ、将来のイエス様の花嫁として受け入れられるのです。
私たちは神様との関係をしがらみ、なんて思い込んでいないだろうか?しかし神様はあなたを縛り付けるためではなく救われるため、行動される。あなたを愛する行動をとられる。あなたが滅びる事を見てられない。あなたが神様から離れて行けばそのいのちは失われていく。そんなことがどうして我慢できよう、だってあなたは神様によって造られた大切な子なのだから。神様はいのち溢れる、その愛であなたを見たすべく御子イエス様のいのちを差し出されたのです。
この愛は一貫しています。今日も続いています。私たちが、あなたがいのちを得るためなら、いのちだって投げ出された。裏切者たちを目の前にしても、最後まで十字架から降りる事を辞めず、最後までの私たちの罰の身代わりとなる事を辞めなかった。あなたがいのちを得るために。このいのちがけの愛に私たちはどう、今日応えるだろうか。このイエス様にあって結ばれた関係にあって、私たちは主を呼び求め、信頼し歩もう。イエス様はあなたの内に住まわれ、あなたの内に語り、その手を伸ばされ、今日も導かれるから。
イエス様が助けて下さるから、私たちは生きたものとなる。イエス様のその御言葉に従うからこそ、私たちは命あるものとなる。イエス様から離れず、イエス様の御あとをついていこう。