「主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下ってきたのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』」
出エジプト記3章7-10節
多くの人は疑問に思う。神様は何をしているんだろう?それはクリスチャンの中でもたまに出てくる疑問。こんな苦しい時に神様は何をしているのか?と。
上の話は、昔イスラエル人がエジプトで、かつてエジプトの危機を救ったイスラエル人が在留していたのですが、その後そのことを知らない王朝が出てきて、数の多いイスラエルを、エジプトの神を拝まずその風習に従わないイスラエルを良しとせず奴隷とした頃の話なのですが、まあある意味で今の日本と似ていますね。神様を知らない人たちの中にいるクリスチャン。
まあそれはそれとて、その状況はあまりに理不尽極まりない状態だったわけです。神様を愛する民であるイスラエルはそんな絶望的な状況にあった…なぜ神様は我々を助けないんだ?と絶望する者たちもいたでしょう。あきらめた者たちも大半。もちろん神様の助けを待ち望んでいた人たちもいたでしょう。そんな中、神様はモーセと言う人に語ったのが上のことば。そう、神様は私たちの状況を確かに「見て」、叫びを「聴いている」。私たちの痛みを「知っている」、と。3章25節にはあなたのことを「御心に留めておられる」ともあります。
これ、すごいですね。私たちの事なんて神様はどうせみていない、関心など持っているはずがない、と私たちは失望に陥ることがある。でも神様は私たちのことを見ておられ、聴いておられ、知っておられるんだ。
でも神様の行動はここでは終わらなかったんだ。見てるし聴いているし知っているから、まあ見守っているから君は自分の力で頑張りなさい、わたしから離れていったあなた方など知らない、とはおっしゃらなかった。神様はそんな神様ではない。一時的に気分をすっきりさせよう、何かを助けよう、そんなレベルの方ではない。
神様は「降って」こられた。闇の中、奴隷の中、罪の闇・牢獄の中にとらえられたイスラエルの民を、いや私たちを救うために、どこかで鎮座してるのではなく、下って来られた。そして、私たちのためには御子イエス様を下らせた。モーセに「行け」と言いましたが、神様はそんな罪の支配する中に御子イエス様に「行け」と、私たちを救い出し、神様ご自身のもとに引き戻すために、イエス様を遣わされた。
神様であられるのに。その痛み悲しみ絶望、罪の支配するところにまで降りてこられ人として生き、ついには私たちの罪・罪の呪いも、悲しみ痛み、絶望一切を身代わりに背負い、十字架に架かられ死と共にそれらを葬り去った。いや、それだけに留まらずよみがえられた事によって、罪の束縛、痛み悲しみ一切の支配からあなたを解き放つのです。もしあなたがイエス様をあなたの罪の身代わりとなって下さった救い主として信じ受け入れるなら。
もはやそれらはあなたを支配できない。十字架によってそれらはもう葬り去られたのですから。そしてそうしたものの支配から解き放たれ、信じるならあなたはもう神様の子とされる、神様があなたと共に生き歩まれる新しいものとされる…あなたの事を心に留め、見、聴き、知っておられ、御子イエス様をあなたのために十字架にかけるという決断と実行をされる方が今日、あなたの内に住まわれ生きて働かれる、イスラエルと共に進まれたようにあなたと共に進まれる。あなたはこのさし伸ばされた手を取るだろうか?
今日この手を、ご愛を受け取り、主と共に歩もう。死して後にはこの神様と共に永遠に住まうその日を待ち望みつつ…
あなたは今日、誰を見上げ、誰を待ち望むだろうか。